『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【経験の重要性】

つまるところ、とるべき道はゼネラリストからスペシャリストではなく、その逆である。

ゼネラリストたるためには経験との関連において専門知識を理解する能力、すなわち専門を一般に関連づける能力が必要とされるからである。

確かに若者は一般的な知識の基盤を必要とし、ビジョンを必要とする。しかし真の一般化ともいうべき知識の総合となると、彼らにとってはまだ意味あることにはならない。

したがって継続教育こそ、真のゼネラリストを生み出す場である。そこにおいてこそ、全体すなわち総体を見、哲学し、意味を問うことができる。

そこで教育者は、学校教育の延長と継続教育の双方が必要であるという。しかし実際には両者は対立関係にある。

学校教育の延長は、社会と仕事の準備としてより多くを詰め込もうとする。継続教育は、学校を社会と統合させようとする。

前者は勉強は成人前にしかできないとする。後者は科目によっては勉強は成人後のほうができるとする。

前者は、実社会に出ることを遅らせるほど多くを勉強できるようになるとする。後者は、実社会での経験が多いほど勉強したがるようになり、勉強もできるようになるとする。

事実、継続教育が一般化するほど、若いときに長く学校に行くことが必要なのか役に立つのかとの疑問が生じてくる。やがてわれわれは、今日の風潮のように、若者をほとんど中年近くまで学校に置いておくことに耐えられなくなる。

言い換えるならば、われわれは経験なるものの重要性、知識に裏づけられた経験の重要性を認識するにいたる。

これまでの経験からするならば、継続教育の考え方のほうが学校教育の延長のそれよりも正しいことが明らかである。成人としての経験をもつ学生を教えてみれば、彼らのやる気と成績のよさに驚かされる。

学生に仕事をもたせる制度での経験も、同じことを教えている。

継続教育は、学校教育の延長に象徴される旧来の教育観を超える大きな一歩である。しかもそれは、知識が仕事の基盤となる大転換の当然の帰結である。それは、学校を生活と仕事の一部として位置づける。

なぜならば、知識が経験を体系化するための基盤となったからには、逆にわれわれが知っていることや、行なっていることの意味を理解できるよう、経験が知識に反映されつづけられなければならなくなるからである。

知識社会では、もはや学校と生活は切り離されたものではありえない。学校と生活は相互にフィードバックし合うという、有機的なプロセスの中で結合される。これこそが継続教育が目指すものである。

したがって、継続教育の発展に伴い、学校教育の延長との衝突が起こる。そこで政策上の意思決定が必要となる。若者の学校教育をさらに延長しつづけるのか。あるいは一生を通じての学校教育の期間を増やし、仕事につく前の若者の学校教育は短く、あるいは少なくともこれ以上は多くしないことにするのか。

これは教育関係者が未だ正面から取り上げていない問題である。まったくのところ、彼らのほとんどが、このような問題の存在にすら気づいていない状況にある。しかし、やがてこの問題に直面せざるをえなくなることは、教育爆発の社会的な影響として必然である。

『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【学歴偏重の害】

学校教育の延長がもたらした最悪のものは、学位の有無によって人を差別するという学歴の壁である。それは、史上初めてのこととしてアメリカ社会を二分するおそれがある。

今日アメリカは、よい仕事の機会を人口の半分以下の者、すなわち大学へ進学した者、特に大学を卒業した者に限定するという愚を犯している。

今日すでに普通の仕事さえ高卒以上に限定している。いわんや中学を出られなかった十五%から二〇%という膨大な数の人たちに対しては、知識社会における市民権を拒否するにいたっている。

これは史上初めてというにとどまらない。おそろしく愚かである。これまでアメリカ社会の強みは能力、覇気、献身に富む者の活躍にあった。

もちろん完全に実現していたわけではない。特に女性についてはそうなっていなかった。黒人については、考慮さえしてこなかった。しかし今日のように、あからさまに、よい仕事は特定の者たちに限るなどということはしたことがなかった。

学歴の高くない者には機会さえ与えないということは、能力と行動力をもつ無数の人たちに対し、成果をあげ社会に貢献するための道を閉ざすことを意味する。

卒業証書は長期間学校に通ったこと以外のことは何も意味しない。卒業証書をもって能力や将来性を判断できるほどには、人間の成長過程は一律ではない。

不当に誤って評価された者を失ってよいほどの余裕は今日の社会にはないはずである。しかも実際には、そのような若者の割合はずっと多い。

卒業証書を手にした者にだけ機会を与えることは、これまでその正しさが十二分に証明されてきたアメリカ社会の基本的な信条の愚かな否定である。

階級制度など一度も存在したことのなかったアメリカにおいて、実際の仕事ぶりではなく学歴をもって就職と昇進の要件とすることは、一人ひとりの人間だけでなく社会そのものを制約し、抑圧し、害をもたらすだけのことである。

間もなくいくつかの州で学歴を聞くことを禁止するようになる。住民投票があれば私も賛成票を投ずる。卒業証書は学問的な能力についてさえ多くを教えてはくれない。

われわれは、学歴はないが有能で意欲ある者が通れるだけの風穴をあけておく必要がある。

雇用主たる者は、まずそのような者を自らの組織内で探すべきである。そのほうが新卒採用に無駄金を使うよりも実りは大きい。

今日のようにあらゆる雇用主が新卒者を採用しようとしている状況では、傑出した者どころか並みの者さえとれない。得られるものは初任給の上昇だけである。

大学へ行っていない者のいる池の中には、大魚はあまりいないかもしれない。しかし個々の雇用主にとっては、大勢が魚を奪い合っている池よりは大魚を得る確率はあるかに高い。

学歴はないが実力と意欲のある者を見つけさえすれば、彼・彼女らに知識を与えることは容易である。今日アメリカには、あらゆる都市にほとんどあらゆる分野について継続教育の機会がある。

学校のほうとしては、取得単位が不足していても能力のあることが明らかな者に対しては認定証書を出すべきである。そして単位は不足していても自らの手で道を切り拓いた者こそ、正規の教科内容という地図に頼ってきた者と同等、あるいはそれ以上の道を通ってきた者として評価する必要がある。

学歴の壁をなくさなければ、せっかくの知識社会もその未来は悪夢となる。学歴を差別の理由とさせてはならない。スラムの黒人がすでにそのような目にあわされている。

学歴の壁はわれわれの社会と経済を堕落させエネルギーを枯渇させる。理想をむしばみ仕事を侮らせる。知識社会のエトスを何事かを成し遂げることではなく、称号をもつこととする。

(※翻訳原文の「彼ら」を「 彼・彼女ら」に変更)

『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【落ちこぼれ】(教育・社会の側の失敗)

学校教育の延長がもたらしている問題がもう一つある。一定の教育期間前に学校をやめる若者に関わる問題である。今日そのような若者は雇用してもらえない。

ニューヨークの地下鉄で公共広告のポスターを見かけた。体格のよい一〇代の若者の写真につけられたコピーは、「君、学校をやめたらずっといわれるよ」だった。このような状況が最も進んでいるのがアメリカである。しかし、これは学校教育の延長に伴いどこでも起こることである…日本でも起こっている。

日本には一〇代の仕事がまだある。漆器や絹織物の伝統工芸の世界では、いまなお中卒の一五歳を求めている。しかし中卒で就職しようとする者がいても地方である。そのため伝統工芸が人手不足に困っている。立派な安定した仕事をもち、やがては独立した職人になれるはずの現在修行中の若者たちさえ不安がないわけではない。

このような状況の最大の被害者は、アメリカでは都市部の黒人の若者である。田舎から出てきた者が一世代のうちに一二年の教育格差を埋めることは容易でない。

落ちこぼれは社会の側の失敗である。社会が喜んで仕事を与えてくれる歳まで彼・彼女らを学校に引きつけ、とどめておけなかった学校の失敗である。生徒に対する責務という、自らの最大の責務を全うできなかった教師の失敗である。

したがって、いまやわれわれは、学校を面白く通いがいのあるものにし、落ちこぼれを防いているか否かによって教育を評価すべき時にきている。

落ちこぼれとは教育の品質管理の失敗である。しかるに今日、この評価に耐える学校や教師がほとんどない。今日落ちこぼれないでいる者も、そのほとんどは好きで学校に行っているのではない。親や社会にそうさせられているにすぎない。

青年期に関わる問題と、落ちこぼれに関わる問題の存在は、生徒の一人ひとりのためのカリキュラムの必要を意味する。すなわち生徒のニーズと意欲を満たすカリキュラム、しかも同じ成長過程を経る者などいないという確たる事実に即したカリキュラムを必要とする。

(※かっこの中は補足、また翻訳原文の「彼ら」を「彼・彼女ら」に変更) 

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内閣府ホームページより

高等教育の無償化は女性の不利な立場を固定化させないか


内閣府は社会の閉塞感を打破する手段として、人工知能(AI)やロボットや自動走行車などの活用を挙げ、その目指す社会をSociety 5.0と呼んでいます。

テクノロジーはうまく活用してほしいですが、この下図ではなにか新しそうなものを並べてごまかされかねないというか、そもそも閉塞感の原因についてはどう考えているのだろうと疑問に感じてしまうのは、私だけでしょうか。 
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内閣府ホームページより

また内閣府はほかにも、高等教育の無償化と女性の活躍促進を政策としてかかげています。前者は格差の固定化の解消をねらいとするものですが、むしろ格差や女性のこれまでの不利な立場を固定化させてしまわないでしょうか。

『ライフシフト』のリンダ・グラットンは、現状では柔軟な働き方をする女性(とくに子どもがいる女性)にとって就くことのむずかしい仕事に高給の職が限られており、社会の中で男性より重いペナルティが課されていると指摘しています。

もし一般に高給の職に就くのに有利な条件が「学歴のある男性」で、高給の職に就いている男性たちの知識や考え方が社会を覆う空気に影響を与えているとしたら、高等教育の無償化は女性がより生きやすい社会の実現に、はたしてプラスに働くでしょうか。

男性たちが柔軟な働き方の仕事を見下したり、家事や育児や生活の知恵を過小評価する固定観念をもっているとすれば、高等教育を受けたところで女性の不利な立場は変わらない恐れがあります。

あるいは「高等教育を受けたアルバイト」などということで、逆に扱いにくいと判断されるかもしれません。

また不自由な勤務時間に耐え続けられる「学歴をもてる男性」が仮に増えたら、女性の立場がさらに悪くなったりしないでしょうか。

高等教育は青年期を長びかせるが、仕事につながらない


教育と仕事の関係について、「20世紀の知的巨人」「未来学者」などと呼ばれたピーター・ドラッカーは、過去と現在・未来との間にはすでに大きな変化(=断絶)が起きてしまっていると指摘しました(『断絶の時代』)。

つまり、「勉強は成人前にしかできないもの、仕事は経験によるもの」とみなし勉強と仕事を別世界にわけた過去から、「勉強は経験を積んだ成人後のほうができる科目が多いもの、知識は仕事や生活に応用する基盤」として学校を社会と統合させる時代への変化(=断絶)です。

こう考えると、いままでの高等教育の弊害がみえてきます。まず「青年期の長期化」という問題です。

一八歳ないしは二〇歳まで学校にとどめておくことは、青年期の長期化を意味する。
青年期とは、その本質からして、自らの能力と社会的に要求される行動とが食い違う時期である。
青年期とは責任をもたされることへのおそれと、権力や機会から遠ざけられていることへの不満に満ちた時期である。
前途有望な若者の多くが、大人でもなく子供でもないという青年期なる煉獄に置かれている社会
引き延ばされた青年期は、社会にとっても、本人にとっても健全な状態ではない。
また、「勉強と仕事は別世界」とする考えのために、いくら勉強しても仕事につながらないことも問題でしょう。

教育が、経済的には何の役にも立たない贅沢と見られていたことは、一般高等教育のルーツを見ればわかる。それは労働寿命の延長に応じて延長されてきただけだった。
今日の一般教養科目にしても、教育者の怠慢によって生き残った専門教育のなれの果てにすぎない。一般高等教育の発展は、意図したものではなく成り行きのものだった。
今日では、学校はあらゆる者にとって成長の場とされるにいたった。しかし、もしそうであるならば、文法の教育は生産的でないことはもちろん、適切でもない。
この「仕事は学校を終えた後のこと、仕事は経験だけ」とする教育観に立ち続けるかぎり、仕事の経験量だけでは不利な女性にとっても意欲ある低所得者にとっても、高等教育は状況の改善に貢献しないと思います。

退屈な教育で勉強しなくなり、過酷な仕事で価値観が固定化する


そもそも私たちは学校でちゃんと勉強してきたんでしょうか。いまの大人は子どもの頃に退屈なことを教えられてきた反動で、勉強しない習慣が身についているのかもしれません。

今日学生はいたるところで学校に反旗を翻している。そもそも教室で教えていることが無意味であるとしている。無意味といわれるほど深刻なことはない。
小さな子供たちまでが学校に飽き飽きしている。彼らは学校を占拠したり、バリケードを築いたりはしない。もっと強力な武器を使う。勉強をしなくなる。これが今日の子供たちがしていることである。
落ちこぼれず高学歴を得た人たちは、「退屈に耐えられる」という資質のためにそうなれたという面も大きいと思います。

落ちこぼれは社会の側の失敗である。社会が喜んで仕事を与えてくれる歳まで彼らを学校に引きつけ、とどめておけなかった学校の失敗である。生徒に対する責務という、自らの最大の責務を全うできなかった教師の失敗である。
高給の職に就く男性たちは、「時間のプレッシャーが厳しい仕事」「チームのメンバーとつねに一緒にいなくてはならない仕事」「ほかの人に代わってもらえない仕事」などのために、リフレッシュや学び直しをして固定観念から脱却する機会をもてないのだと思います。

勤務先の「企業の制度や手続き、文化や価値観」もそうさせるんじゃないでしょうか。

社会を覆う閉塞感を打破する方法


社会の閉塞感を打破する方法については、グラットンとドラッカーという新旧の経営思想家のあいだで、ある程度の意見の一致がみられると思います。

「人生100年時代」のグラットンは、「教育→仕事→引退」という古い3ステージの生き方に別れをつげることを提唱しています。思っていたより20年も長く働く可能性の高い時代には、手もちのスキルや人脈だけで活力を維持しつづけるのがほぼ不可能になるからです。

ドラッカーは、学校教育を短縮し、学歴(職歴)偏重をやめ、成人のための継続教育を発展させることを提唱していました。若者にとっては「行政学ではなくアメリカ研究」のような応用科目の方が必要で、哲学や歴史などの一般的な教養科目は経験のある成人の教育としてこそ意味があるといいます。

つまり、とるべき道は「スペシャリストからゼネラリスト」だというのです。

継続教育こそ、真のゼネラリストを生み出す場である。そこにおいてこそ、全体すなわち総体を見、哲学し、意味を問うことができる。
それはナシーム・ニコラス・タレブが「実生活+蔵書」「膨大な蔵書を持つ遊び人」と呼ぶような、読書からの知識も手がかりに生活や仕事をどんどん変えていく、発展させていける人のことを指すのだと思います。

知識とは、その本質からして革新し、追求し、疑問を呈し、変化をもたらすものだ
われわれは、学歴はないが有能で意欲ある者が通れるだけの風穴をあけておく必要がある。
「これまでの閉塞感を打破し、希望の持てる社会」を目指すなら、人工知能(AI)などの活用や高等教育の無償化ではなく、学校教育を短縮し、学歴・職歴偏重をやめ、家庭や仕事での経験のある成人が何度も勉強できる継続教育の環境や機会を充実させることの方が、有効に機能すると考えます。 

『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【青年期の長期化】

高等教育の普及の犠牲も大きかった。今日学校教育の延長が、まったく新しい種類の問題、対処の難しい問題を生じている。

一八歳ないしは二〇歳まで学校にとどめておくことは、青年期の長期化を意味する。

今日の二五歳は、三五歳を越えては生きられなかった一世紀前の一五歳よりも社会年齢は若い。今日の二五歳は、一世紀前の一五歳よりも、社会的精神的には成熟していない。

そもそも青年期などという概念が近年のものである。

青年期とは、その本質からして、自らの能力と社会的に要求される行動とが食い違う時期である。

学校教育の延長はこの青年期を延ばす。学校は青年期を長引かせる。しかも、同年齢の者だけの社会という不自然な社会に閉じ込める。

学校では大人になれない。

引き延ばされた青年期は、社会にとっても、本人にとっても健全な状態ではない。

前途有望な若者の多くが、大人でもなく子供でもないという青年期なる煉獄に置かれている社会

青年期とは責任をもたされることへのおそれと、権力や機会から遠ざけられていることへの不満に満ちた時期である。

若者たちの不満は正当である。だが彼・彼女らのためにしてやれることはない。せいぜい今日の創造性のひとかけらもない硬直化した教育システムに、いつまでも縛ることなく、速やかに青年期から脱出させてやることである。

学校にいる間にも、何らかの経験をし何かを行う機会をもたせることである。さらには、昔の若者が苦労なしにできたことをさせること、すなわち若い大人として、大人と働かせることである。

学校に行っている間にも、経験を積み、何ごとかをつくりあげ、成果をあげられるようにすることである。

何よりも、今日なすべきことは、これ以上の青年期の無用な延長をやめることである。

(※翻訳原文の「彼ら」を「 彼・彼女ら」に変更)

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【必然の教育革命】

あらゆるものに量的な拡大が質を変える転換点がある。今日の学校が転換点をはるかに超えたことは間違いない。

教育関係者は、いまなお手直し、調整、改善を議論する。劇的な変革の必要性を認識している者はほとんどいない。しかし今後数十年のうちに教育は外からの圧力によって変革させられる。

今日の教育はあまりに多くの人間を必要としている。はるかに少ない人間で賄えなければならない。

【教育方法の陳腐化】

今日学生はいたるところで学校に反旗を翻している。そもそも教室で教えていることが無意味であるとしている。無意味といわれるほど深刻なことはない。

小さな子供たちまでが学校に飽き飽きしている。彼らは学校を占拠したり、バリケードを築いたりはしない。もっと強力な武器を使う。勉強をしなくなる。これが今日の子供たちがしていることである。

わずか一世代前、学校は子供たちに新しい世界を開いてやっていた。家や村の閉ざされた世界の代わりに、限りなく広大で芳醇で色彩にあふれた世界を経験させた。教科書の平凡な言葉にさえ、興奮があり物語があり夢があった。

教え方はつたなく規律もなかったかもしれない。だが学校に行くことは冒険だった。

ところが先進国では、学校はもはや新しい世界への窓ではない。教育の場でもない。古びた代用品にすぎない。

就学前の農家の子供さえ、テレビとラジオを通じて生々しく外の世界を見ている。

中身は別としても、今日の電波はその方法と形態においてコミュニケーションについては名人級である。

テレビの三〇秒のコマーシャルほど慎重に設計され明確に伝えるものはない。一秒一秒に意味がある。あらゆる動きにバランスとリズムがある。あらゆるセリフが呪文である。

今日の教師のうち、三〇秒のコマーシャルの脚本、演出、演技、撮影、編集に匹敵する準備をしたことのある者はいないはずである。

しかも時間の長さが子供たちの持続力にぴったりである。学習の方法として完全である。配列、反復、動機づけという学習の三大要素を完備した学習プログラムである。

子供たちは、なぜ学校が退屈きわまりなく、教えてくれるどころか、息をつまらせるだけのところになっているのかは知らない。しかしテレビやラジオの水準に馴れ親しんだ彼らは、今日の教え方では受けつけない。

彼らのとれる唯一の反応は、勉強をしないことである。

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【学校教育と継続教育】

仕事が経験によるものであった時代には、仕事と学校は別世界にあってよかった。仕事は学校を終えた後のことだった。

知識にせよコンセプトにせよ知っておくべきことは、仕事に入る前に学校で詰め込まなければならなかった…結果は学校教育のいっそうの延長であり、若者をさらに長く学校にとどめておくことだった。

しかし仕事に知識を適用する時代にあっては、継続教育すなわち経験と実績のある成人を何度も学校に帰らせることが必要になる。そしてそのとき、将来必要となるものをすべて学ばせるという今日の学校の意図が意味をなさなくなる。

そもそも一〇年後一五年後にいかなる知識が必要になるかがわからない。

知識とは、その本質からして革新し、追求し、疑問を呈し、変化をもたらすものだ

知識をもつほど、自らの無知を自覚し、新しい能力の必要を認識し、自らの知識を深化させなければならないことを知る。

今日この継続教育が教育の世界では最も成長しつつある。

継続教育の発展が意味するものの一つは、科目のそれぞれに学ぶに適した時期があるとの認識である。

もし実社会において経験を積んだ後のほうが効果的に学ぶことができるのであれば、やがて学校に戻ってくるまで勉強を延ばしておくべきである。

事実、経験を積んだ後のほうが勉強できる科目は多い。

その他あらゆる学問に、経験のない若者では学びとることのできない科目、あるいは初心者には不要な科目というものがある。

哲学や歴史など最も一般的な教養科目もまた、経験のある成人の教育としてこそ意味がある。

むしろ専門科目こそ若者が勉強しやすくかつ必要とするものである。ただしここにいう専門科目とは、生物学や近代史ではない。それは、後述するように、意味ある知識としての環境制御や極東研究などの応用科目である。

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【一般高等教育のルーツ】

教育が、経済的には何の役にも立たない贅沢と見られていたことは、一般高等教育のルーツを見ればわかる。それは労働寿命の延長に応じて延長されてきただけだった。

今日の一般教養科目にしても、教育者の怠慢によって生き残った専門教育のなれの果てにすぎない。一般高等教育の発展は、意図したものではなく成り行きのものだった。

最初から一般教育として意図してつくられた学校は、一二歳から一五歳を対象とする中学までだった。

わずか四〇年前、輸出商社で働き始めたとき(ドラッカー18歳のとき)、私は教育を受けすぎているといわれた。オーナー経営者とその息子たちは私より若くして働き始めていた。一四歳で働いていた。

今日では、学校はあらゆる者にとって成長の場とされるにいたった。しかし、もしそうであるならば、文法の教育は生産的でないことはもちろん、適切でもない。

今日の子供は大事な成長期に学校に行かされ、高等書記のための教育をそのまま受けさせられている。それではあまりに偏し、あまりに狭く、あまりに限定されている。リベラルどころか一般的でもない。教育とはとてもいえない。

今日の学校の最大の弱みであり、かつ生徒たちを最も苦しめているものが、この文法という拘束服である。 

(※かっこの中は補足) 


マフィアを解散させることができたのは、その成員たちに道理を説いたからでは決してなかった。

覚えておくべきこと:特別利益団体、ロビー活動を行う圧力(陳情)団体、単一の文化を唱導するジャーナリスト、自分たちの既得権益や優遇措置のために活動する大学教授に対しては、説得によってやめさせることができるというのは絶対にない。そうではなく、

1)彼・彼女らを白日のもとにさらすこと、2)彼・彼女らの顧客の立場にある人たちに働きかけること、これによってやめさせることができる。

成果に対する説明責任が、彼・彼女らに身銭を切らせることにつながるのだ。

教育について(ナシーム・ニコラス・タレブの4月26日のツイートのおおざっぱな和訳)

1) 昔から、次のふたつが区別されてきた。
+食べるために働くことをしなかった、自由な人(リベラルな人)のための、“リベラルな教育”
+働く人たちのための、“実業的な教育”

2) たとえば、“リベラルな教育”のために教えられる数学は、理論的な頭を鍛える訓練だった。ユークリッドの定理は建築では使われなかった。
一方、建設業者は彼ら独自の経験則や、より豊かな幾何学を使っていた。

3) アングロサクソンの世界では、貴族階級のねたみによってそのふたつが一緒にされた。
+教養のある人になるための教育(文学、哲学、詩、抽象数学、歴史、切手収集など)
+物事を行うことを学ぶための教育(工学、薬学、会計学、法学、ベリーダンス、配管工事など)

4) だから私たちは“教養を身につけるために学ぶこと”と“物事を行うために学ぶこと”を区別して、別々の教育機関で教える必要がある。
両方を兼ね備えていると私が考える唯一のものは数学だが、これも説得力のある主張というわけでもない。応用数学はまったく違うものだから。

5a) 同業者による相互評価の問題点は、研究対象についての理論だけで教授を選び、研究対象についての基本的な知識をいっさいチェックしないことだ。これはレバント地方の“ポストコロニアルジェンダー理論”にくわしい人によくあることで、理論を教えても、実際にあった事実はけっして教えない。

5b) フランスの人たちは教育者に対する資格試験(アグレガシオン)を行うことでこの問題を解決した。あなたのための教育者が同業者だけで評価された人しかいないという事態にはならない。
(おなじ問題:“経済学を知る”ということは、経済学者たちによる理論を知ることと解釈されるのであって、経済に関わる事実を知ることではない。)

6) 教育モデルはすでに崩壊している。人が大学で学ぶ唯一のことのように思われるのは、物事を創造できるほど優秀ではないから大学教授になり、団結して引用組織の中でたわごとをいう、敗者のイデオロギーだけだから。
(経済学だけではなくて、どこでもそうだ)

7) ついに私たちは教育をふたつに分けられる。
+自分の発言や行動に責任を負わない人たちによる教育
+自分の発言や行動に責任を負う人たちによる教育
これらを別々の教育機関に分けられる。

8) リベラルな教育によって自由な考え方ができる人がつくられるという意見は、ほとんど最大の作り話だ:経験的には、教育によって、“考えられる人”と“自由な”の正反対の人間がつくられている:洗脳された奴隷だ。

9) この“リベラルな教育”のための“大学”制度は、歴史的にみて、教会と密接に結びついて指導されていたことを思い出してほしい。
テクニカルな教育は、自由な考え方ができる人たちに委ねられていた。

10) 反脆弱性のなかで私はこの混乱状態について書いている。
まずビジネスがあって、次にテクノロジーが来て、そのあとに科学が続く。
この順番の方が、その逆よりも、はるかに頻度が高いのだ。
問題は、学者たちが本を書くこと、実際に物事を行なっている人たちは本を書かないことだ。

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(画像はWikipediaより)

最近、日本では経営者の能力が議論の対象になっているようですが、経営学の父と呼ばれたピーター・ドラッカーは、著書『マネジメント』のなかで、経営者やマネジャーが経営学の役割をもっとよく理解してくれたらいいのにといった内容のことを述べていました。でも、経営学にはいったい何ができるのでしょうか。

経営学を語る経営者の本といえば、『柳井正 わがドラッカー流経営論』(NHK「仕事学のすすめ」制作班・編)が思いうかびます。ユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井さんはこの本の中で、経営学の役割を少なくとも3つ指摘していると思います。

まず、①ふつうはおぼろげながら感じるしかできない経営や組織のことを、きっちり言葉で説明する、という役割です。
 
ぼく自身は、自分が経験の中で身につけたと思っていたことも、本を読み返してみると全部書いてある。
じっくり読むうちに「ぼくのやってきたことは、なるほどこういうことだったのか、間違っていなかったんだ」となんだか自信が湧いてきた
ぼくは人生の節目節目でドラッカーの著書を読み返し、自分の立ち位置を再確認するとともに、ときには彼の言葉に勇気づけられ、背中を押されてきたような気がしている
20年以上も前に書かれたものなのに、まるでわが社の現状を見ながらアドバイスしてもらっているような気分になる
進むべき道、企業のあるべき本質的な姿を示してくれる羅針盤のような存在だ

次に、②企業理念の作成を手伝うことです。
 
株式の上場にあたって、会社の理念を自分で作り上げなければならない状況だったんです。そのための参考資料にはドラッカーの著書が非常に役にたった。

また、③業界・業種を超えて役に立つ、という役割が考えられます。
 
松下幸之助さんの本も同時に読み返してみましたが…ドラッカーは経営者ではなく、学者という「傍観者」の立場だから、客観的に経営や組織を論じている。どちらも基本的には言っていることはほぼ同じなんですが、理論的な部分ではドラッカーの著書のほうがわかりやすいと感じました。
彼の言葉は普遍的で客観的ですからね。ビジネスの現場にいる人以外にも伝わる言葉なんです。

①のふつうは言葉で説明するのがむずかしいものとは、たとえば「経営者の仕事」が挙げられます。柳井さんの本とドラッカーの本を交互につながりを探すように読んでいくと、経営者に求められる仕事が少なくとも2つは見えてくるように思います。

【経営者の仕事1】「私たちの事業はなにか」を徹底的に考える

柳井さんは、「ドラッカーの著書を読んでいくと「会社とは何か。なんのために存在しているのか」といった本質的なことが明確にわかってくる」といいます。 

企業とは何か…企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的…それは、顧客を創造することである。(『マネジメント』)

ドラッカーは、組織にとっては「私たちの事業はなにか」がもっとも重要であり、その答えを徹底的に考えることが経営者の仕事であるといいます。またその答えは、たとえば①将来のビジョン、②目標、③顧客はだれか、④顧客の目的、⑤自分たちの強み、といったことで構成されると教えています。

ここで「ユニクロの事業はなにか」を簡単に検討するために、上の要素に対応する柳井さんの発言を取りだしてみると、以下のように記述できると思います。

①こういう会社になりたいという将来のビジョン
「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」

②より具体的な目標
「世界一のアパレル製造小売業」

③自分たちの商品やサービスを買う顧客
「あらゆる人」
「難民や1日1ドルで暮らしている人、はては大金持ちまで」

④顧客のどんな目的を満足させるか
「最高品質の服を低価格で」(ユニクロ)
「程良い品質の服を超低価格で」(g. u. )
「シンプルかつスタイリッシュな服」を「気軽に買える値段」で(+J)
「ベーシックなデザインで組み合わせ次第ではお洒落にも着れる」
(服は服装の部品であり、われわれが目指しているのはパーツカンパニーだ)
「自分で商品を選ぶことができる」

⑤自分たちの強み
「野菜事業の失敗も、私たちの本当の強みはファッションにある、ということを再認識したという点では意味があったように思います」
(他社がすでに私たちよりもうまくやっているのなら、あえて私たちが参入する意味はない) 

【経営者の仕事2】人の新しい満足を生みだす

また柳井さんには、「お客様が潜在的需要として持っているのに、まだ世の中に存在していないものを形にして、「これなんか、いかがでしょう?」と提示してあげる」という姿勢が一貫してみられます。 

ドラッカーも同様に、人の新しい満足を生みだすことも企業の役割であり、最新のテクノロジーを採用すること自体はそれを達成するものではないと述べています。

…企業の第二の機能は、イノベーションすなわち新しい満足を生みだすことである。(『マネジメント』)
今日イノベーションと称しているものの多くは、単なる科学技術上の偉業にすぎない。(『イノベーションと企業家精神』) 

新しい満足を生みだす有効な方法とされるものに、「まだつながりのないものを組み合わせて、新しいビジョンのもとに統合すること」があります。柳井さんがユニクロのアイデアを思いついたときのエピソードを例にあげて見てみましょう。 

柳井さんはアメリカの大学生協に立ち寄ったときに接客のないセルフサービスによる売り場をみて、「レコードや本だけじゃなくて、こんなふうに気軽に洋服も買えたらいいのに」というイメージが浮かんだそうです。

つまり、「アメリカの大学生協のセルフサービスによる売り場」と「カジュアルウェア」という当時まだつながっていなかったふたつを、「いつでも気軽に服を選べる巨大な倉庫」というユニクロのビジョンのもとに結びつけることで、大きな力をもつシステムが生まれたとみることができると思います。 

経営者・マネジャーと経営学者・コンサルタントはもっと双方向のコミュニケーションを

ドラッカーは、経営学は「期待を裏切っている。その約束を果たしていない。マネジメントの実践に革新をもたらしていない」と指摘していました。もし経営学の責任についてドラッカーが正しく、また、日本の経営者について最近いわれていることにも一理あるとしたら、日本の生産性の問題は経営学者やコンサルタントのせいでもあることになると思います。

もし経営学者やコンサルタントの側に必要な改革については柳井さんがヒントをくれているとすれば、柳井さんは次のようなことを話しています。

巷にはたくさんの経営学の本が溢れていますが、ほとんどの経営学者は理論でばっさばさと切っていくだけで、そこには「人」が存在していない。でもドラッカーの経営理論の中心には「人」がいる。そこがなんといっても彼の著書の一番の魅力なんです。
彼は他の学者とは明らかに違った波乱に富んだ道を歩み、自ら人生を切り開いてきた人物なんです。
身をもって体験した歴史のなかから生まれた言葉や理論だからこそ、いつ読んでもリアルに私たちの心に響くというわけです。
それもふつうの学者ならば、わざと小難しい言葉を使って書くところを、彼の場合は誰にでもわかる平易な言葉だけで語りかけてくれる。

実際にドラッカーは、企業やNPOなどのコンサルタントとしても、2005年に96歳を目前にしてなくなるまで約65年間生涯現役を貫いた人でした。GM(ゼネラルモーターズ)に依頼された調査研究をはじめ、実務家たちと一緒に働いた経験やセミナーで議論した内容を、自分自身の仕事でも試して確認しながら研究を修正・洗練させたといいます。

ここで見てきた「経営者の仕事」と「経営学の役割」は、ほんの一部でまったく不十分だと思います。経営学者やコンサルタントは、経営者やマネジャーに使いこなしてもらえる道具をもっと提供できるように、「経営学がどんなもので、何ができるのか」をしっかりと共有しながら、一緒になって仕事をしていくことが求められているのではないでしょうか。

私たちは幼い頃から、なんとなくいろいろな場所で、ずっと同じ会社で安定した人生を送るのがいいことだと教えられてきました。たとえば、私が通った慶応大学の前学長で、いまも内閣府のシンクタンク(経済社会総合研究所)の名誉所長である清家篤先生は、約5年前のNHKの番組で次のように話しています。

働くということを考えたときに、原則というか基本的には同じ会社でずっと働いたほうがいいんですよ。生活の安定からいっても、企業にとっても、長く働いてもらったほうが忠誠心が獲得できるし、それから教育訓練をして、すぐに辞められたら、会社が丸損でしょ? だから、せっかくお金をかけて訓練した人は、長く勤めてもらうということがいいことなんですね。

でも、金融のビジネスマンから大学の先生になったナシーム・ニコラス・タレブ(『反脆弱性()』)のように、えらい人たちが市民のためにと推し進める安定した人生には、目に見えにくい副作用があると考える人もいます。

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まず、「誰にだって生活の糧は必要だ」という気持ちで働きつづけている場合、慢性的なストレス障害が生じることが挙げられるでしょう。

…イヤな上司、住宅ローン…試験のプレッシャー、面倒な雑事、溜まったメール、記入しなければならない書類の山、日々の通勤など、程度は軽くても継続的なストレスのほうが、間違いなく健康に悪い。そういう生活からいつまでも抜け出せないような感覚に陥るからだ。

次に、会社のトップ、中間管理職、一般従業員のどの立場にあっても、忙しい平日と限られた週末とに分離された生活では、余暇の使い方がマンネリ化、コモディティ化してしまう恐れがあります。

…うわべだけ立派なCEOは、型どおりでつまらない作り物の生活を送っている。スケジュールはあらかじめ決まっていて、目覚まし時計は欠かせない。余暇さえ時計との戦いで、4時から5時まできっかり1時間、スカッシュで汗を流す。彼らの生活は予定と予定の間にサンドイッチされているのだ。

住宅ローンを抱えた銀行の中間管理職は 究極に脆い。実際、そういう連中は価値体系の完全な囚人となり、芯まで腐り切ってしまう。毎年バルバドスで休暇を取るという人生に依存しているからだ。それはワシントンの公務員も同じだ。

現代人は、休暇中でも囚われの生活を送らざるをえなくなっている。金曜の夜のオペラ。スケジュールされたパーティー。お約束の笑い。これも金の牢獄だ。

また、まわりの人も多くが安定した被雇用者として働いている場合、その価値観を美化・神聖化し、広く押しつけるようになることが考えられます。

この価値観は、グローバル化とインターネットのおかげで、ブリティッシュ・エアウェイズで簡単に行けるところならどこでも広まっている…銀行やタバコ会社で懸命に働き、新聞を熱心に読み、(全部でないにせよ)ほとんどの交通ルールを守り、企業構造にとらわれ、上司の意見に依存し(職務記録が人事部に残るからだ)、法令をきっちりと遵守し、株式投資に頼り、南国で休暇を楽しみ、住宅ローンを組んで郊外に家を購入し、おしゃれな犬を飼い、土曜の夜にワインをたしなむ。

さらに、似た価値観が広まると、みんなが同じものを求めるようになり、同じ商品ばかり使いすぎる可能性があります。

勝者総取り効果はいっそう酷くなっている。作家、会社、アイデア、ミュージシャン、アスリートは、大成功するかまったく芽が出ないかのどちらかだ。

…私たちはおんなじ商品ばかりを使いすぎてしまう。この集中こそが危険なのだ。たとえば、マグロを過剰に消費すると、ほかの動物を傷つけ、生態系を脅かし、種を絶命に追いやるはめになる。

同じように、大人たちは金持ちになると、みんな同じ活動をし、同じものを買いはじめる。カベルネ・ワインを飲み、ヴェネツィアやフィレンツェに憧れ、南仏に別荘を購入するのを夢見る。その結果、観光地は耐えがたい場所になりつつある。こんどの7月、ヴェネツィアに行ってみるといい。

以上の組織生活における慢性的なストレスや、余暇の使い方・価値観・消費する商品の固定化などの影響は、「ずっと同じ会社で安定した人生」から生じるというよりは、そのなかで身につけられがちな「型どおりの思考」「固定的な思考」によるものなのかもしれません。その思考体系とは、次のもので特徴づけられると考えられます。

  • 説明不能なことは実行できない、自分の行動を説明せずにはいられない
  • あらかじめ「響きのよい筋書き」が書ける物事しか実行しない
  • 間違い犯すことを嫌い、失敗を恥とみなし、情報源として使うことができない
  • 新しい情報・経験を活かすのではなく、保身に回る(以前からの自分の考えや価値観を守る方を選ぶ)
  • いまの自分に理解できないものは、ナンセンスだと切り捨てる
  • 論理的なものを好み、ニュアンスを排除する
  • 理解できても言葉では表現しにくいものを排除しようとする
  • 「自分に理解できないからといって、不合理とはかぎらない」とは考えない
  • 先延ばしの妙があるかもしれないとは考えない
  • 冗長さを非効率とみなし、投資に近いものとは考えない
  • 「はっきりとした仕事」を必要とし、「“うろうろ”する」のは苦手だ

私たちは講釈に依存している。行動や冒険を知識化せずにはいられない。公営企業や公務員、そして大企業の従業員たちは、何らかの講釈に当てはまるような物事しか実行できない。

このようにして見ると、「ずっと同じ会社で安定した人生」の深刻な副作用とは、以上のような変動性や不透明さを嫌う考え方に慣れ切ってしまい、余暇の使い方も含めて、実験や試行錯誤を繰り返す遊び心を失ってしまうことなのかもしれません。

もしタレブの言うように、「人生にはストレスや不確実性の果たす役割がある」「ストレスは情報である」「少量の害が頑健さを手に入れる第一歩」だとしたら…

あらゆるものの成長は、「あいまいで、直感的・野性的・自由奔放で、理解しにくく、身体の内側から湧いてくるようなもの」がなければ進まないのだとしたら…

私たちに必要なのは、ランダム性、無秩序、冒険、不確実性、自己発見、トラウマに近い出来事だ。これらがあるからこそ、人生には生きる価値がある。

私たちはずっと同じ会社に勤めながらも、たとえば生活の10%は、他人の評価や基準ではなく自然な好奇心や本能的な刺激に従って、「自分がいちばん重要で面白いと思うものを、好きなだけ追求できる」機会にあてられるとよいのかもしれません。

それは「バーベル戦略」または「二峰性戦略(極端な安全策+極端なリスク・テイク)」と呼ばれ、タレブのアドバイスによると、「失敗は起きても小さいが潜在的な利得は大きい」機会を見つけることがポイントとされています。

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Liberalism (or the party of life, the party that favors free growth and spontaneous evolution) regards democracy as desirable that only what the majority accepts should in fact be law, but it does not believe that this is therefore necessarily good law. Its aim, indeed, is to persuade the majority to observe certain principles.

Democracy (i.e. majority rule) a means, not an end

While the dogmatic democrat regards it as desirable that as many issues as possible be decided by majority vote, the liberal believes that there are definite limits to the range of questions which should be thus decided.

The crucial conception of the doctrinaire democrat is that of popular sovereignty. This means to him that majority rule is unlimited and unlimitable. The ideal of democracy, originally intended to prevent all arbitrary power, thus becomes the justification for a new arbitrary power.

A group of men normally become a society not by giving themselves laws but by obeying the same rules of conduct. This means that the power of the majority is limited by those commonly held principles and that there is no legitimate power beyond them.

There can clearly be no moral justification for any majority granting its members privileges by laying down rules which discriminate in their favor.

Democracy is, above all, a process of forming opinion. Its chief advantage lies not in its method of selecting those who govern but in the fact that, because a great part of the population takes an active part in the formation of opinion, a correspondingly wide range of persons is available from which to select.

The argument for democracy presupposes that any minority opinion may become a majority one.

Advance consists in the few convincing the many. New views must appear somewhere before they can become majority views. There is no experience of society which is not first the experience of a few individuals.

Nor is the process of forming majority opinion entirely, or even chiefly, a matter of discussion, as the overintellectualized conception would have it. . . . Though discussion is essential, it is not the main process by which people learn. Their views and desires are formed by individuals acting according to their own designs; and they profit from what others have learned in their individual experience. Unless some people know more than the rest and are in a better position to convince the rest, there would be little progress in opinion.

Friedrich Hayek


*The words in parentheses are Hayek’s explanations of the meanings of the words provided on different pages.

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自由主義(または生命の党、自由な成長と自生的な発展を好む党)は多数の受けいれたもののみが実際に法となるべきであることを望ましいと考えるが、だからといってこれが必然的に良い方法であるとは信じない。実際、自由主義の目的は多数者を説いてある原則を守らせることである。

民主主義(=多数決の原則)は手段であって目的ではない

教条的な民主主義者はできるかぎり多くの問題を多数投票によって決定することを望ましいとみなす一方、自由主義者はこのようにして決定されるべき問題の範囲にははっきりとした限界があると信じる。

教条的な民主主義者にとって決定的な概念は人民主権の概念である。かれらにとってこのことは、多数者支配が無制限でありかつ制限しえないことを意味する。民主主義の理想は本来すべての恣意的権力を防止することを意図したものであるのに、こうして新しい恣意的権力を正当化するものとなる。

通常、人びとの集団が一つの社会となるのは、自身で法を定めることによるのではなく、同一の行為規則に従うことによるのである。これの意味するところは、多数者の権力がこの共通に支持された原則によって制限され、この原則を超越する正当な権力が存在しないということである。

どのような多数者も、自らにとって有利に差別をする規則を制定してその成員たちに特権を与えることには、明らかになんの道徳的正当性もありえない。

民主主義は何にも増して、意見を形成する過程である。その主要な利点は支配する者を選ぶ方法にあるのではなく、国民の大部分が意見の形成に積極的に参加するために、それに相応する広範囲の人びとが選ばれうるという事実にある。

民主主義を支持する論拠は、どんな少数意見でも多数意見になりうることを前提としている。

前進は少数者が多数者を納得させるところにある。新しい見解は、それが多数者の見解となりうる以前にどこかにあらわれなくてはならない。最初に少数の個人が経験するものがなければ、社会が経験することはない。

また多数意見の形成過程は、過度に理知的に考える場合は別として、全然あるいはだいたいにおいて討論の問題ではない……討論は大切ではあるが、人びとが学び覚える主要な過程ではない。かれらの見解や願望は、個々人が自身の計画にしたがって行動することによって形成される。そしてかれらは他人がその個人的経験において学んだものから利益を得る。ある一部の人たちが他の人びと以上のことを知り、また他の人びとを納得させるだけのよりよい立場にいるのでなければ、意見には少しの進歩もない。

フリードリヒ・ハイエク


*括弧内は別の箇所でのハイエクによる用語説明を捕捉したものです

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いつの時代でも、自由のための誠実な友人はまれであった。そして自由の勝利は少数者によるものであって、かれらは自分自身の目的とはしばしば違う目的をもった援軍と連合して勝つのである。しかしこの連合はつねに危険なものであり、反対者にたいして反対の正当な根拠を与えることによって、ときには悲惨なことになった。   
アクトン卿

At all times sincere friends of freedom have been rare, and its triumphs have been due to minorities, that have prevailed by associating themselves with auxiliaries whose objects often differed from their own; and this association, which is always dangerous, has sometimes been disastrous, by giving to opponents just grounds of opposition.   
Lord Acton

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ナシーム・ニコラス・タレブは、金融トレーダーの実践家から大学の研究者に転身し、2007年以降のアメリカ発の世界金融危機を予告した本『ブラック・スワン』が世界でベストセラーになりました。

彼の新しい本は、「もろさの反対」という意味の『反脆弱性( )』というタイトルです。ひと言で表せば、「エリート主導の社会は、弱者の不安定という犠牲の上に強者の安定を実現する不公平な構造でもろいため、社会の一人ひとりが身銭を切って小さな失敗を糧にしながら変動に強くなるように変わるべき」という内容といえます。

詐欺を見て詐欺と言わないなら、その人自身が詐欺師である。


著者は、弱者を助けるために「何かしなければ」と社会の仕組みをつくる立場にある人たちが、結果として弱者を傷つけ、強者をいっそう強くしており、自分たちは結果に対してリスクも負わなければ身銭を切ることもない、ときびしく批判しています。

タレブの批判の対象には、一生安泰の公務員官僚政治家学術研究者マスメディア広告業界医学界製薬会社食品・飲料メーカーコンサルタント銀行ヘッジ・ファンド大企業の幹部大企業の従業員、などが挙げられています。

このなかの民間部門が「いっそう強くされている強者」にあたると考えられますが、強者を強くしている政府の介入や政策、また社会の仕組みとは、株価や為替などの見えやすい指標に影響を与える金融緩和“大きくてつぶせない”一部の企業を優遇する企業救済中間層の特権を強化する解雇規制や参入規制いっこうに減らない国の借金と未来の世代への先送り大企業に便宜を図るロビイスト、などのことです。

こうした指摘自体は新しいものではなく、タレブがたびたび言及しているフリードリヒ・ハイエクは、1944年に出版されたベストセラー『隷属への道』で、「保障という特権が社会を毒していく」こと、つまり、政府による善意のおせっかいが「地位の安定した生産グループの構成員による、そうでないグループに属する弱い、不運な人々に対する搾取」という結果をもたらしていることについて、次のように説明しています。

このような制限によって硬直化してしまった社会で、保護された職業の外部に置き去りにされた人々が、どれほど希望の持てない立場に立たされるか。また、そういった人々と、うまく仕事にありついて、競争から保護されているがゆえに、仕事のない人々に場を与えるため少しなりとも席を詰めようとする必要がない人との間に、どれだけ大きなギャップが横たわっているか。それは実際に苦境を経験したことのない人にはわからないものだ。


この「保護された職業」でよくみられる現象としてタレブは、金儲けや自分の職業の正当化のために、毎日空く紙面を満たすかのように生みだされる商品・サービス、ニュース、研究(広い意味でのジャンク・フード)が増えることを挙げ、その取りすぎ・読みすぎは「私たちの身体を混乱させる」と注意喚起しています。 

アンフェア化する社会の脆さに関するタレブの見解がおおむね正しいとした場合、彼のいう「詐欺師」とは、指摘されるような側面がいまの社会にあることを感じていながら、何らかの理由で声をあげるのをためらってきた人すべてを指すのでしょう。

では、アンフェア化する社会の原因と解決策としては、どのようなものが考えられるのでしょうか?次回以降は、その原因と解決策について順番に見ていきたいと思います。

組織の部門間のコミュニケーションでは、意見の対立がたびたび起こります。特にほとんど顔を合わせずメールだけでやりとりする場合には、各々の主張が繰り返されるだけになる恐れもあります。強引に前に進めるために、「こちらの言う通りにしてくれなければこのプロジェクトは終わってしまう」などと誇張した内容をメールに書いたり、権限を持つ上司の支持を求めたりもできるのでしょうが、筆者はそうやって過去に問題を起こしてしまいました。

アメリカで働いていたとき、筆者は日本のある食品向けに原料を開発・製造・販売するプロジェクトに携わっていました。アメリカの開発・製造部門が情報開示に難色を示し続けている中で、「日本人は品質にこだわる」とか「日本では顧客が神様だから」などとメールだけで無理に対応を依頼し続け、どうにか最初の商業ベースの製造が行われることになりました。

しかし予期せぬ機械のトラブルで実際の製造手順が事前の取決めと異なるものになってしまい、その最初の製造分を購入してもらえない結果になったとき、工場長の怒りが爆発しました。筆者には工場内で禁止されていた写真撮影を行ったとの濡れ衣が着せられ、そのプロジェクトの製造を中止するというメールが上層部に送信されてしまったのです。

筆者のコミュニケーションを反省するために、経営学の「知識経営(ナレッジ・マネジメント)」の考え方を見ていきたいと思います。その提唱者として世界的に影響力のある野中郁次郎先生は、「対話(言語)と実践(行為)を繰り返していく中で新たな製品・サービスを生み出すプロセス」を下図のSECIモデルに示しました。


左上の共同化は、物理的に一緒の場所で時間を共にする体験を通じ、各個人の無意識の前提にある価値観の違いが浮かび上がり、互いの違いを認めて理解しあうようになるプロセスです。例えば「ユーザーとの対話を通して、ユーザーとしての立場で考えること」は、この共同化の過程であると言えます。

右上の表出化は、まだ明確な形をとっていない自分の考えや思いを文章や図などの具体的な形に表現し、集団に効率的に伝えていくプロセスです。この過程においては、個人の内部でも焦点が明確になり、新たな気づきが起こります。具体的には、「喩えを用いて新製品のコンセプトを創造する」とか「技能をマニュアルやシステムに落とし込む」といった過程が考えられます。

右下の連結化は、表出化された形式知を外から集めて分析したり、別の形式知と組み合わせて編集・体系化したりする過程です。連結化とはまた、コンセプトを製品などに具現化することでもあるとされます。具体例としては、文献や調査資料の読み込み、データ分析に基づく販売促進法の考案、試作品の製作などが挙げられます。

左下の内面化は、連結化により組織的に体系化された販売促進法や製造手順などの形式知を現実に行動に移し、その結果から自覚的に反省し、さらに工夫を加えて実践してみることで、「次第に個人の暗黙知として血肉化していく」過程です。実験や製品テストなどの開発にかかわる経験、市販後の顧客サポート、製品のマイナーチェンジなどがこの内面化のプロセスとして考えられます。

これらは実際には境界が曖昧な連続したプロセスになると思われます。また、個人の視点が自己と他者の間を絶え間なく行き来する中で「主観的な経験が…組織的な知識や知恵として膨らんでいく」ということが、知識経営(ナレッジ・マネジメント)の基本の一つであると言えるでしょう。

この考え方に立てば、筆者のコミュニケーションには互いの思いや価値観の違いをぶつけ合う「共同化」の段階が欠けていたことがまず見えてきます。実際には、それは問題が起きてから初めて実現しました。工場長のメールを受けた筆者は、直ちにオフィスから車で2時間半離れた工場へと向かいました。事態の深刻さに驚いてすっかり参ってしまっていたので、思っていたことを伝える以外にできることはありませんでした。

工場の会議室で工場長と対面した時、まず写真撮影を決して行っていないことを丁寧に説明しました。また、日本の顧客がなぜ自分たちから原料を買おうとしてくれているのか、その食品が日本人にどのように親しまれているか、ここで製造された原料が使われることが自分を含めた日本人スタッフにとってどんな意味を持つか、などといった話をしました。

すると工場長は意外な話を始めました。過去に顧客として視察に来た日本の企業が、結局原料を買わずにアメリカ国内に競合する工場を建設してしまったというのです。また、アメリカの田舎町での雇用機会の創出に関わっている誇りや、工場で働く人たちに感じている責任などについて話してくれました。面談が終わって工場を後にするとき、彼はちょっと待てと言って再び建物の中に戻り、工場のロゴが入った上着を持ってきて筆者に手渡してくれました。

彼らが当初から情報開示に神経を尖らせていた理由が、そのときからようやくわかり始めた気がします。知識経営(ナレッジ・マネジメント)の用語を用いるなら、筆者は技術も持たずに相手を説得しようとばかりしていて、「各個人が自らのかけがえのない体験・信念・価値観にコミットして語りあうこと」としての対話を行っていませんでした。対話には「相互の信頼」が不可欠ですが、筆者たちの間に信頼関係はまだ構築されていませんでした。

また知識経営(ナレッジ・マネジメント)では、対話(言葉)で解消されない対立が、実践(行為)から蓄積された直観によって解消されうると考えます。筆者たちの場合は、試作品や試験設定を作る過程で、メールによるコミュニケーションの限界をよく理解せず、不用意に喧嘩し過ぎていたのかもしれません。その後で実現したように、筆者が工場近くのモーテルに泊まって工場長たちとジャックダニエルを飲んだり、工場長が日本に来て頭にネクタイを巻いたりしながら、試作品や実行案について話し合い、実際の試験の場も共体験できることが望ましいと考えられます。地理的に直接のコミュニケーションが難しいときのICT(情報通信技術)の利用の仕方は、それ次第ではマイナスに働くという点で、決定的に重要であるのかもしれません。

最後にもう一つだけ書かせてください。工場長と日本の鉄板焼き店に一緒に行った時、「おいヒロキ、写真を撮ってもいいかシェフに聞いてくれ」と彼が頼むので、「そんなの大丈夫だよ」と答えました。「なんでわかるんだ?」と聞くので、「えーと、僕らがお客さんだから?」と返してしまいました。そのとき「オレは客に写真は撮らせないけどな」と言った彼のいたずらっぽい微笑みが、いまでも時折思い起こされることがあります。


【主要参考文献】
  1. 野中郁次郎・竹内弘高(1996),『知識創造企業』,東洋経済新報社.
  2. 野中郁次郎・紺野登(1999),『知識経営のすすめ』,ちくま新書.
  3. 野中郁次郎・遠山亮子・平田透(2010),『流れを経営する』,東洋経済新報社.
  4. Polanyi, M. (1962), Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy, The University of Chicago Press.(長尾史郎訳(1985)『個人的知識―脱批判哲学をめざして』ハーベスト社)
  5. Polanyi, M. (1967), The Tacit Dimension, The University of Chicago Press.(高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫)

日本は制度変化の道半ばにある


今年7月に亡くなられた経済学者の青木昌彦先生は、昨年出版された『青木昌彦の経済学入門』の中で、「日本の過去二十年ばかりの在り方は、世に広くいわれる「失われた二十年」というよりは、制度体系の「移りゆく一世代=三十年」の半ばにある」という考えを示されていました。これに従えば、自民党の一党支配が終焉した1993年から東京オリンピック以降の2023年頃までが「移りゆく30年」にあたることになります。

 

制度はマインドセットに関わり、経済のパフォーマンスに影響を与える

 

「制度」とは、青木先生の定義では、「人々が「世の中はこういう具合に動いている」と共通に認識しているような、社会のゲームのあり方」であるとされます。日本の高度成長期を例にとれば、「業界団体」と「関係官庁」の結託、「終身雇用」、「メイン・バンク制度」、「象牙の塔を形作っていた」大学などが、その頃に形成された「制度」すなわち「社会的ゲームのプレーの特徴的なパターン」とみなせます。

 

青木先生の他にも、1993年にノーベル経済学賞を受賞したダグラス・ノースやコロンビア大学名誉教授のリチャード・ネルソンといった経済学者が同様に主張するように、「制度」は人々の「文化」や「認知」や「マインドセット」に関わり、経済のパフォーマンスに影響を与える要因であると考えられています。

 

また「制度」を形作る要因としては、(1)法律のような公式なルール、(2)社会規範のような非公式な制約、(3)警察や裁判所のようなルールを実効化(enforce)する仕組み、が挙げられます。これらと社会のゲームのあり方としての「制度」それ自体とのあいだには、明確な境界線を引くのは難しいとも言われています。

 

日本の制度体系に起きている変化とその原因

 

終身雇用制などの日本の制度の多くは、1950年代半ばから1970年代初めまでの高度成長期に形作られたと考えられています。しかしバブル崩壊後の頃から、「一つの会社なり省庁なりに忠誠を誓って勤続していくことが必ずしも当たり前とはいえない状態」になり、また以前は「絶対に潰れないと思われていた」金融機関が倒産する事態も起きました。

 

つまり、「それまで自明視されていたルールが、崩れ始め」ていて、「日本は制度変化のプロセスに入った」と考えられます。

 

日本で制度変化が起きている原因としては、「情報革命」と呼ばれる情報通信技術の進歩や経済環境の「グローバル化」などが挙げられていますが、ここでは特に「人口動態の変化」に注目したいと思います。

 

日本の生産年齢人口(15〜64歳)割合は、戦後からバブル崩壊のあった1990年代初め頃までは上昇かほぼ安定の傾向にありましたが、その後は現在に至るまで低下を続けており、日本は「いまや近代史には未知の人口成熟化社会に向かって先行している」と言われています。

 

下の図は、国立社会保障・人口問題研究所によって作成された1960年と2015年の人口ピラミッドです。人口構成の違いをこのように比較すると、高度成長期に形成された制度の一部はもはや持続可能でないという考えには妥当性があるように思われます。特に社会保障制度に関しては、「その再設計が先送りされるならば、負担はますます若年世代に重くのしかかり、その働くインセンティブをそぐであろう」といった懸念の声が多く聞かれます。

 1960
2015
出所:国立社会保障・人口問題研究所ホームページ (http://www.ipss.go.jp/

 

制度変化のプロセス:漸進的変化とメディアの役割

 

上述のノースの研究によれば、制度変化は基本的に漸進的なものであると考えられています。その理由は社会的ゲームのプレーの特徴的なパターンとしての制度が人間の文化や認知やマインドセットに関わることに求められると思われますが、軍事的征服や革命などの結果として公式なルールが急進的に改革されるように見える場合でも、文化などの非公式な制約は徐々にしか変化しないとされています。

 

青木先生は、制度変化における「メディア」や「学界」などの役割、またそこで闘わされる「公論」の役割を強調されていました。このプロセスに関する筆者の理解は特に不十分ですが、「顕著な公的言説」が人々の「予想」や「行動選択」に影響を与え、その結果生じる「社会的状態」が経験されることでまた「公論」が闘わされる繰り返しの中で、背景にあった「歴史的に形成された文化的予想」も「それ自体が進化していく」ようなプロセスが考えられていたのかもしれません(またそこでは「実験的な選択」や「模倣」も重要な要因になると思われます)。

 

日本の制度変化の方向性

 

ここで、青木先生が「オリンピックの準備と補いあって定まっていくだろう」と予想されていた「改革の行き先」を見ることで、日本の制度変化の方向性を今後私たちが各自で考えるきっかけにできればと思います。「活動人口の減少」や「いっそうの都市化・サービス業化」などへの対応が必要であるという見立てから、青木先生は「少なくとも三つのことが重要だ」と指摘されていました。

 

まず、「女性の労働参加率・キャリア・起業と出産率の上昇を両立させうるような仕組みの充実」であり、「雇用慣行と制度の革新」や「乳幼児から小学生にいたる系統的な養育サービスの規制緩和」がそれに含まれます。

 

次に、「就労移民の規制緩和とその予備軍たる留学生の拡大」です。この提言には、「日本語とともに、外国語をしゃべり、日本人とカルチャーを部分的に共有する人たちが都会・農漁村や学校に増えることは、生活を活性化する」という積極的な意味があります。

 

最後は、「ますます集積が進む都会と、人口は減少するが活力のある地方の相補的なすみ分け」です。地方が「都市と共生しうる」ようになるための手段としては、農業における「付加価値の高い生産物の開発」や「地方の自然・文化資産を活用した観光産業の開発」などが挙げられており、そのカギは「熟練者のノウハウと若い人たちのエネルギーや都市化時代に適合したマーケッティングとの創意結合」や「多様な創意工夫の競争」などにあるとされていました。

 

終身雇用の相対化と子供たちの技能形成

 

以上の三つのうち、「日本の制度体系の根幹にあった」と考えられる「終身雇用制」の変化の方向性について、もう少し考えてみたいと思います。「一つの組織で一生勤めあげる」という選択は、大多数の人にとっての「当たり前」とは必ずしもいえない状態になっており、「部分的な選択の対象として残る」ことが一つの方向性として考えられます(「終身雇用制度の相対化」)。この場合には、子供たちの技能形成はその変化にどう適応する必要があるでしょうか。



教育・技能訓練については、青木先生は別の著書『比較制度分析序説』のなかで、「組織の参加に先立つ教育」における日米の様式化された違いを「可塑的・文脈的技能」と「機能的技能」として区別されていました。つまり、日本では「特定の企業組織参加後にその文脈で有用な技能(文脈的技能)に磨きをかけるという展望を持って、まず一般的な問題処理能力や組織コミュニケーションの能力(可塑的技能)に投資しておく」ことが一般的な選択であったのに対し、アメリカでは「どのような組織においても通用するような特殊機能の技能(機能的技能)に投資する」ことが一般的な選択であったと考えられるということです。

 

また組織の違いに関しても、従来の日本企業は「マネジメントと各職場のあいだのタテの関係」と「職場間のヨコの情報(認知)連結関係」の両方で、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションなどを通じた暗黙知にもとづく「情報共有」を強める特性を持つとされていました。これは「機能分担」を曖昧にすることで「伸縮的な職務配分」を可能にし、「自動車産業」などの「製造技術の高度化(ハイ・エンジニアリング)」で「比較優位の源泉の一つ」となってきた一方、「特殊な機能的技能に投資し、その有効利用を主張する主体」が「「出る杭は打たれる」式の扱いを受ける」おそれがあり、「ソフトウエア産業」や「IT産業などの新産業の構想」で「アメリカに一歩も、二歩も譲るところとなっている」要因の一つであるとも考えられています。

 

しかし人口動態や雇用構成の変化とともに終身雇用が当たり前でなくなってくるとすれば、それと補完的だったこれまでの可塑的・文脈的技能の教育にも変化が求められると考えられます。また日本型組織についても、「従来の企業内またはそのグループ内に閉じ込められていた情報共有型組織を、部品調達や開発協力の外部のネットワークに開いていくこと」や、「企業の境界を越えた通信・調達・開発のネットワーク化を学習し、応用すること」が必要とされるように思われます。

 

筆者の限られた理解では、以上の変化によって要求される知識や技能を具体的に示すことができません。しかし制度変化の研究は、そのような知識や技能が社会に十分に蓄積されて初めて日本の制度変化が大きく進むかもしれないことを示唆しており、この点では「教育制度や他の学習機会の拡延」が重要になると思われます。

 

新しいビジネスと教育・研究の発展のための産学連携

 

教育制度に関連して、青木先生は新しいビジネスの創造における「産学連携」の可能性も指摘されていました。大学は教育と「限りなく基礎に近い研究」を行い、企業は「研究の成果を製品開発と商品化に具体化する」。その「あいだをつなぐメカニズム」としての「仲介組織がさらに大学周辺に簇生」することが必要であり、そこには「産業と大学の双方からの人材の流入が必要である」というのです。

 

この点について筆者は、新しい教育・研究の発展にも同様のことがいえるのではないかと考えています。教育者・研究者は自らの依拠する前提や方法を擁護する傾向があり、それがある程度長期間にわたるのは当然であると思われますが、研究の成果に対する産業界の「商業化」の活動からフィードバックを受けてモデルや方法を更新していくことがあってもよいのではないでしょうか。いずれにしても、大学は研究の成果を産業界や仲介組織にオープンにしていく必要があると考えられます。

 

政府債務の累増が懸念される今日ではありますが、終身雇用を中心とした日本の制度体系と技能形成の進化の方向性に関する私たちの理解が継続的に深まり、産学政官の連携を通じて老齢・現役・若年世代の間で利益の調整が行われ、いまの子供たちが大人になったときの日本が活性化されていることを願っています。 

今回は、ハイエクの議論に見られる「社会をゼロサムゲームに変えてしまう要因」と「それを乗り超えるための基礎となるもの」について書きたいと思います。

 

以前、「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」というリンダ・グラットンの議論に簡単にふれましたが、これに関連してハイエクは、人びとが一定の利益やポジションを奪い合うゼロサムゲームとは異なる社会が実現可能であると考えていたように思えます。


その社会を言い表すために彼が提案した「カタラクシー(catallaxy)」という言葉は、「交換すること」と「コミュニティに入るのを許すこと」と「敵から友人へと変えること」を意味したギリシャ語のkatallatteinに由来していました。


カタラクシーは、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかが見えてくる」という点では厳しい競争の側面をもちますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同プールが拡大していき、能力や技能や運に委ねられてその分配が決まる」という点ではゼロサムゲームと異なっています。それは、人びとが先ず社会の共同プールへの貢献に努め、その分配が運にも依存して増減することを承認し、多様な活動に関わるより多くの人の機会が改善されるような社会になるのかもしれません。


では、社会をゼロサムゲームに変えてしまうものとは何でしょうか。ハイエクがそう明言していたわけではないですが、彼の議論のなかにはその主な原因として、「集団的利己主義(group selfishness)」と「集団的利益を保護する政策」が指摘されていたと考えます。またゼロサムゲームからの脱却の基礎となるものとして、「法の前の平等」や「開かれた社会のルール」の概念を普及・徹底させることが主張されていたと思います。


以下ではそれらを順に見ていきます。また次回の「敵から友人へと変える社会に(仮題)」のなかで、ハイエクが目指したカタラクシーという社会についてもっと詳しく書きたいと考えています。


集団的利己主義、部族社会の感情の復活


ハイエクは、経済を働かなくさせる最大の脅威は「集団的利己主義」だと述べていました。明確な定義は与えられていませんが、自分の立場や集団の利益に奉仕するのであればよそ者には危害を加えたり排除したりしてもいいという組織的な思考のことであるといえます。


例えば、同種の仕事で社会に貢献したいと望む人びとを締め出すことで自分たちの地位や所得を守ろうとする労働組合や同業者の団体・組合による排他的慣行が挙げられます。ハイエクはそれらの顕著な特徴を以下のように示していました。

  • 組合員以外の部外者による分野への参入を妨害する
  • 不要不急の仕事を増やす
  • 供給される財やサービスを統制しようと努める
  • 組合・団体への加入に高いプレミアムを課す
  • 仲間に心理的・道徳的な圧力をかけ、不本意な支持を強要する


集団的利己主義によって犠牲にされるのは、明らかに直接締め出される生産者に限らず、多くの場合は本人たちもそのことに気付いてないような組織されない(できない)人びとであると考えられます。「消費者一般、納税者、女性、老人」などをハイエクは挙げていましたが、最近の日本に関していえば「若者」も含められるかもしれません。


ハイエクは、集団的利己主義は人間に深く根ざしている部族社会の感情であると考え、それを「私たちの中にいる飼いならされていない野蛮人」と呼びました。また、最近になって部族の組織的な思考の強力な復活が見られている一つの理由として、社会の成員に占める大規模組織で働く人の割合がますます増加していることを挙げました。


集団的利益を保護する政策


ハイエクはまた、経済の働きを妨げる別の要因として、政策が組織された集団の利益を保護する傾向をもつことを指摘していました。つまり、「無数の小さなそれゆえに無視されがちな効果よりも、少数の強力なそれゆえに目立ちやすい効果のほうに優先的な考慮を与えがちである」というのです。とくに、自分たちの現在のポジションや一度到達した所得水準が脅かされていると感じている人びとの集団にたいして特権が与えられやすいと指摘しています。


会社法、税制、金融政策などに関しても、集団的利益を優先する傾向をもつことが主張されています。筆者自身は法律や政策をよく知らないのですが、ハイエクの議論の一部は以下のように要約できます。


a) 会社法

  • 会社を擬人または法人として認めることは自然人のもつ多くの権利が会社にも拡張される効果をもったが、技術的な理由によって正当化される範囲を超えて大規模化を有利にしている
  • 個人の権利を組織されたグループにまで拡張する必要はなく、時には組織されたグループから個人を守ることが政府の義務でさえありうる


b) 税制

  • 被雇用者の自由の拡大、芸術・文化・スポーツの発展、自然の美しさや歴史的財宝の保存などのためには、少数のイニシアティブをもった個人やそれらを後援する独立の資力をもつ個人をもっと存在させることが重要であるが、累進課税は成功している人が財産を蓄積するのを難しくすることで、社会を固定化している
  • 累進課税が資本形成の局面に与える影響を考えると、既存法人企業の地位を強化して、新規参入者の立場を不利にする傾向がある


c) 金融政策

  • 貨幣価値の低下による実質賃金の引き下げの後には、組合による貨幣賃金の引き上げの要求が続き、その反復は累積的なインフレーションを生むかもしれないが、いつかやめなければならないと人びとは気づくことになる
  • 一時的な雇用の増加や政府の介入による賃金引き上げは、組合が政府の機構のなかに編入されるような側面をもち、既存の経済構造の歪みを硬直化させ、より大きな不平等と全体としての労働者の実質所得の切り下げという犠牲を払ってはじめて実現する(集団的利益からなる擬似政府の肥大化)
  • 政策の刺激的な効果が作用するのは、それが予想されなかったあいだだけである

(一方で、輸出や外国人観光客の増加による効果などの論点は、ハイエクの議論ではあまり明示的に扱われていないかもしれません)


法の前の平等、開かれた社会のルール


組織的利益を優先する政策が問題となる一つの理由は、それらが社会の成員全員には適用されないこと、特権や差別的な扱いにつながることにあると思われます。ハイエクは、ルールはすべての人に等しく適用されるべきであるという「法の前の平等」の考え方を繰り返し強調し、法の前の不平等は相対的に貧しい人たちの犠牲において裕福な人びとを利すると主張しました。


法の前の平等は「法の支配」と同義で使われる言葉であり、17世紀まではギリシャ語のisonomia(イソノミア)やそれを英語の形にしたisonomy(イソノミー)という言葉が使われていたようです。これらは、法を施行する人びとが先ず自らとその子孫を縛りつける用意のあるルールの施行のみに限定されなければならないという概念でもあると考えられます。


現代のような拡張された交換に基づく社会を可能にしてきたのは、法の前の平等と「いまを生きている人びとが気づいている以上に多くの経験が蓄積されてくるなかでの試行錯誤の過程の産物としてのルール」の規律である。これがハイエクの重要なメッセージの一つであったと考えます。ここでは後者を「開かれた社会のルール」(または「大きな社会のルール」)と呼びたいと思います。


ハイエクの議論の中から、筆者が「開かれた社会のルール」と考えるもののごく一部を以下に示します。

  • 社会の成員の誰かが価値のあると思われることを行う付加的能力を獲得した場合には特定の人びとにとっての競争者となることを認め、社会にとっての利益と捉える
  • 誰も統制できない事情によってやむをえない立場におかれているのが自分であると決定されたときには変化にしたがい、努力の方向を変える
  • 少数の既知の人びとの必要に応えるよりも何千人もの未知の人びとの必要に応えるほうがよい


このようなルールの発達は、一つの部族コミュニティの内部ではじまったのではなく、未開人がお返しを期待して自分の部族の境界線に贈物をおいていったときの最初の無言の物々交換にはじまったのだろうとハイエクは考えていました。


結論としては、集団的利己主義とそれを保護する政策の問題点は「人間の努力の方向を導く指針を機能不全に陥らせること」にあるのに対して、法の前の平等と開かれた社会のルールの目的は「恣意的な権力を防止し、すべての人に好ましい機会が訪れる可能性を増大させること」にあるといえます。また次回に見るように、後者は「各個人が日常生活で出会う具体的出来事を活用すること」に役立つと考えることができます。

(次回に続きます)


行政サービスが市民への強制力を帯びやすい現行の政府の構造を改めようという前回の投稿の続きです。今回は市場経済の規律としての「他者にとっての価値の探求」について書きたいと思います。

 

私たちは分業と交換に基づく社会生活(=市場経済)に参加することで、各自がさまざまな財とサービスを自由に使えるようになる見込みと機会を高めています。ハイエクは市場経済の性質を深く分析し、私たちが心がけておくべきことをいくつか指摘していました。

 

第一に、能力ある成人はまず自分と扶養家族の生活に責任に負わなければならないことです。これは、自分たちの過失で友人や社会の他の成員になるべく負担をかけてはならないことを意味します。(もちろん自分の面倒を見ることのできない人びとには、誰もそれ以下には落ちなくなる保障が与えられることが前提です。)

 

第二に、個人や組織が見返りに得られると期待できる報酬が、財やサービスを受けとる側の人びとにとっての価値でなければならないことです。理由はハイエクがいうように、どちらかといえば「人間は生まれつき怠惰で不精、また先のことを考えないで浪費的である」ように思われるからです。

 

報酬がそのサービスから恩恵を受ける人びとにとっての価値であることの意義は、私たちが個人的な動機や関心からはじめたとしても、各自の身近な周囲の環境を他者の目的のために役立たせようと努力し、自分の能力を何かに貢献できるよう利用することに導かれることにあります。

 

逆にいえば、この条件が満たされている場合に限り、どんな仕事をなすべきかの決定を各自に許すことができるともいえます。

 

ハイエクは、経済活動における個人の適切な持ち場(例えば、その人は起業家か従業員かなど)が、仲間や同業者たちから評価されるその人の功績とは必ずしも結びつかないことを示唆していました。

 

つまり、長い時間と努力を費やして高い技術を獲得した人であっても、彼は自分だけでは「対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずる」ことができないかもしれません。その場合、「その能力から最大の便益を引きだせる人たちに自分の能力を知らせる」ことができなければなりません。

 

あるいは、人の能力を具体的サービスにうまく転ずる起業家的な能力をもちながらも、現在は従業員などの立場で仕事をしている人びともいるかもしれません。

 

自分の能力のための適切な場所を探し出す必要があるという基本的な事実がもっとよく理解されなければならない、とハイエクは主張していました。しかし今後みていくように、そのような努力が十分になされていない原因として、人為的な障害が存在することも指摘していました。

 

また他者にとっての価値といっても、当初は少数者の意見や嗜好にとどまらざるを得ない分野(とくに「文化」と呼ばれる非物質的な価値の分野)も重要であるとハイエクは考えていました。

(次回に続きます)

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