私たちは幼い頃から、なんとなくいろいろな場所で、ずっと同じ会社で安定した人生を送るのがいいことだと教えられてきました。たとえば、私が通った慶応大学の前学長で、いまも内閣府のシンクタンク(経済社会総合研究所)の名誉所長である清家篤先生は、約5年前のNHKの番組で次のように話しています。

働くということを考えたときに、原則というか基本的には同じ会社でずっと働いたほうがいいんですよ。生活の安定からいっても、企業にとっても、長く働いてもらったほうが忠誠心が獲得できるし、それから教育訓練をして、すぐに辞められたら、会社が丸損でしょ? だから、せっかくお金をかけて訓練した人は、長く勤めてもらうということがいいことなんですね。

でも、金融のビジネスマンから大学の先生になったナシーム・ニコラス・タレブ(『反脆弱性()』)のように、えらい人たちが市民のためにと推し進める安定した人生には、目に見えにくい副作用があると考える人もいます。

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まず、「誰にだって生活の糧は必要だ」という気持ちで働きつづけている場合、慢性的なストレス障害が生じることが挙げられるでしょう。

…イヤな上司、住宅ローン…試験のプレッシャー、面倒な雑事、溜まったメール、記入しなければならない書類の山、日々の通勤など、程度は軽くても継続的なストレスのほうが、間違いなく健康に悪い。そういう生活からいつまでも抜け出せないような感覚に陥るからだ。

次に、会社のトップ、中間管理職、一般従業員のどの立場にあっても、忙しい平日と限られた週末とに分離された生活では、余暇の使い方がマンネリ化、コモディティ化してしまう恐れがあります。

…うわべだけ立派なCEOは、型どおりでつまらない作り物の生活を送っている。スケジュールはあらかじめ決まっていて、目覚まし時計は欠かせない。余暇さえ時計との戦いで、4時から5時まできっかり1時間、スカッシュで汗を流す。彼らの生活は予定と予定の間にサンドイッチされているのだ。

住宅ローンを抱えた銀行の中間管理職は 究極に脆い。実際、そういう連中は価値体系の完全な囚人となり、芯まで腐り切ってしまう。毎年バルバドスで休暇を取るという人生に依存しているからだ。それはワシントンの公務員も同じだ。

現代人は、休暇中でも囚われの生活を送らざるをえなくなっている。金曜の夜のオペラ。スケジュールされたパーティー。お約束の笑い。これも金の牢獄だ。

また、まわりの人も多くが安定した被雇用者として働いている場合、その価値観を美化・神聖化し、広く押しつけるようになることが考えられます。

この価値観は、グローバル化とインターネットのおかげで、ブリティッシュ・エアウェイズで簡単に行けるところならどこでも広まっている…銀行やタバコ会社で懸命に働き、新聞を熱心に読み、(全部でないにせよ)ほとんどの交通ルールを守り、企業構造にとらわれ、上司の意見に依存し(職務記録が人事部に残るからだ)、法令をきっちりと遵守し、株式投資に頼り、南国で休暇を楽しみ、住宅ローンを組んで郊外に家を購入し、おしゃれな犬を飼い、土曜の夜にワインをたしなむ。

さらに、似た価値観が広まると、みんなが同じものを求めるようになり、同じ商品ばかり使いすぎる可能性があります。

勝者総取り効果はいっそう酷くなっている。作家、会社、アイデア、ミュージシャン、アスリートは、大成功するかまったく芽が出ないかのどちらかだ。

…私たちはおんなじ商品ばかりを使いすぎてしまう。この集中こそが危険なのだ。たとえば、マグロを過剰に消費すると、ほかの動物を傷つけ、生態系を脅かし、種を絶命に追いやるはめになる。

同じように、大人たちは金持ちになると、みんな同じ活動をし、同じものを買いはじめる。カベルネ・ワインを飲み、ヴェネツィアやフィレンツェに憧れ、南仏に別荘を購入するのを夢見る。その結果、観光地は耐えがたい場所になりつつある。こんどの7月、ヴェネツィアに行ってみるといい。

以上の組織生活における慢性的なストレスや、余暇の使い方・価値観・消費する商品の固定化などの影響は、「ずっと同じ会社で安定した人生」から生じるというよりは、そのなかで身につけられがちな「型どおりの思考」「固定的な思考」によるものなのかもしれません。その思考体系とは、次のもので特徴づけられると考えられます。

  • 説明不能なことは実行できない、自分の行動を説明せずにはいられない
  • あらかじめ「響きのよい筋書き」が書ける物事しか実行しない
  • 間違い犯すことを嫌い、失敗を恥とみなし、情報源として使うことができない
  • 新しい情報・経験を活かすのではなく、保身に回る(以前からの自分の考えや価値観を守る方を選ぶ)
  • いまの自分に理解できないものは、ナンセンスだと切り捨てる
  • 論理的なものを好み、ニュアンスを排除する
  • 理解できても言葉では表現しにくいものを排除しようとする
  • 「自分に理解できないからといって、不合理とはかぎらない」とは考えない
  • 先延ばしの妙があるかもしれないとは考えない
  • 冗長さを非効率とみなし、投資に近いものとは考えない
  • 「はっきりとした仕事」を必要とし、「“うろうろ”する」のは苦手だ

私たちは講釈に依存している。行動や冒険を知識化せずにはいられない。公営企業や公務員、そして大企業の従業員たちは、何らかの講釈に当てはまるような物事しか実行できない。

このようにして見ると、「ずっと同じ会社で安定した人生」の深刻な副作用とは、以上のような変動性や不透明さを嫌う考え方に慣れ切ってしまい、余暇の使い方も含めて、実験や試行錯誤を繰り返す遊び心を失ってしまうことなのかもしれません。

もしタレブの言うように、「人生にはストレスや不確実性の果たす役割がある」「ストレスは情報である」「少量の害が頑健さを手に入れる第一歩」だとしたら…

あらゆるものの成長は、「あいまいで、直感的・野性的・自由奔放で、理解しにくく、身体の内側から湧いてくるようなもの」がなければ進まないのだとしたら…

私たちに必要なのは、ランダム性、無秩序、冒険、不確実性、自己発見、トラウマに近い出来事だ。これらがあるからこそ、人生には生きる価値がある。

私たちはずっと同じ会社に勤めながらも、たとえば生活の10%は、他人の評価や基準ではなく自然な好奇心や本能的な刺激に従って、「自分がいちばん重要で面白いと思うものを、好きなだけ追求できる」機会にあてられるとよいのかもしれません。

それは「バーベル戦略」または「二峰性戦略(極端な安全策+極端なリスク・テイク)」と呼ばれ、タレブのアドバイスによると、「失敗は起きても小さいが潜在的な利得は大きい」機会を見つけることがポイントとされています。

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Liberalism (or the party of life, the party that favors free growth and spontaneous evolution) regards democracy as desirable that only what the majority accepts should in fact be law, but it does not believe that this is therefore necessarily good law. Its aim, indeed, is to persuade the majority to observe certain principles.

Democracy (i.e. majority rule) a means, not an end

While the dogmatic democrat regards it as desirable that as many issues as possible be decided by majority vote, the liberal believes that there are definite limits to the range of questions which should be thus decided.

The crucial conception of the doctrinaire democrat is that of popular sovereignty. This means to him that majority rule is unlimited and unlimitable. The ideal of democracy, originally intended to prevent all arbitrary power, thus becomes the justification for a new arbitrary power.

A group of men normally become a society not by giving themselves laws but by obeying the same rules of conduct. This means that the power of the majority is limited by those commonly held principles and that there is no legitimate power beyond them.

There can clearly be no moral justification for any majority granting its members privileges by laying down rules which discriminate in their favor.

Democracy is, above all, a process of forming opinion. Its chief advantage lies not in its method of selecting those who govern but in the fact that, because a great part of the population takes an active part in the formation of opinion, a correspondingly wide range of persons is available from which to select.

The argument for democracy presupposes that any minority opinion may become a majority one.

Advance consists in the few convincing the many. New views must appear somewhere before they can become majority views. There is no experience of society which is not first the experience of a few individuals.

Nor is the process of forming majority opinion entirely, or even chiefly, a matter of discussion, as the overintellectualized conception would have it. . . . Though discussion is essential, it is not the main process by which people learn. Their views and desires are formed by individuals acting according to their own designs; and they profit from what others have learned in their individual experience. Unless some people know more than the rest and are in a better position to convince the rest, there would be little progress in opinion.

Friedrich Hayek


*The words in parentheses are Hayek’s explanations of the meanings of the words provided on different pages.

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自由主義(または生命の党、自由な成長と自生的な発展を好む党)は多数の受けいれたもののみが実際に法となるべきであることを望ましいと考えるが、だからといってこれが必然的に良い方法であるとは信じない。実際、自由主義の目的は多数者を説いてある原則を守らせることである。

民主主義(=多数決の原則)は手段であって目的ではない

教条的な民主主義者はできるかぎり多くの問題を多数投票によって決定することを望ましいとみなす一方、自由主義者はこのようにして決定されるべき問題の範囲にははっきりとした限界があると信じる。

教条的な民主主義者にとって決定的な概念は人民主権の概念である。かれらにとってこのことは、多数者支配が無制限でありかつ制限しえないことを意味する。民主主義の理想は本来すべての恣意的権力を防止することを意図したものであるのに、こうして新しい恣意的権力を正当化するものとなる。

通常、人びとの集団が一つの社会となるのは、自身で法を定めることによるのではなく、同一の行為規則に従うことによるのである。これの意味するところは、多数者の権力がこの共通に支持された原則によって制限され、この原則を超越する正当な権力が存在しないということである。

どのような多数者も、自らにとって有利に差別をする規則を制定してその成員たちに特権を与えることには、明らかになんの道徳的正当性もありえない。

民主主義は何にも増して、意見を形成する過程である。その主要な利点は支配する者を選ぶ方法にあるのではなく、国民の大部分が意見の形成に積極的に参加するために、それに相応する広範囲の人びとが選ばれうるという事実にある。

民主主義を支持する論拠は、どんな少数意見でも多数意見になりうることを前提としている。

前進は少数者が多数者を納得させるところにある。新しい見解は、それが多数者の見解となりうる以前にどこかにあらわれなくてはならない。最初に少数の個人が経験するものがなければ、社会が経験することはない。

また多数意見の形成過程は、過度に理知的に考える場合は別として、全然あるいはだいたいにおいて討論の問題ではない……討論は大切ではあるが、人びとが学び覚える主要な過程ではない。かれらの見解や願望は、個々人が自身の計画にしたがって行動することによって形成される。そしてかれらは他人がその個人的経験において学んだものから利益を得る。ある一部の人たちが他の人びと以上のことを知り、また他の人びとを納得させるだけのよりよい立場にいるのでなければ、意見には少しの進歩もない。

フリードリヒ・ハイエク


*括弧内は別の箇所でのハイエクによる用語説明を捕捉したものです

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いつの時代でも、自由のための誠実な友人はまれであった。そして自由の勝利は少数者によるものであって、かれらは自分自身の目的とはしばしば違う目的をもった援軍と連合して勝つのである。しかしこの連合はつねに危険なものであり、反対者にたいして反対の正当な根拠を与えることによって、ときには悲惨なことになった。   
アクトン卿

At all times sincere friends of freedom have been rare, and its triumphs have been due to minorities, that have prevailed by associating themselves with auxiliaries whose objects often differed from their own; and this association, which is always dangerous, has sometimes been disastrous, by giving to opponents just grounds of opposition.   
Lord Acton

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ナシーム・ニコラス・タレブは、金融トレーダーの実践家から大学の研究者に転身し、2007年以降のアメリカ発の世界金融危機を予告した本『ブラック・スワン』が世界でベストセラーになりました。

彼の新しい本は、「もろさの反対」という意味の『反脆弱性( )』というタイトルです。ひと言で表せば、「エリート主導の社会は、弱者の不安定という犠牲の上に強者の安定を実現する不公平な構造でもろいため、社会の一人ひとりが身銭を切って小さな失敗を糧にしながら変動に強くなるように変わるべき」という内容といえます。

詐欺を見て詐欺と言わないなら、その人自身が詐欺師である。


著者は、弱者を助けるために「何かしなければ」と社会の仕組みをつくる立場にある人たちが、結果として弱者を傷つけ、強者をいっそう強くしており、自分たちは結果に対してリスクも負わなければ身銭を切ることもない、ときびしく批判しています。

タレブの批判の対象には、一生安泰の公務員官僚政治家学術研究者マスメディア広告業界医学界製薬会社食品・飲料メーカーコンサルタント銀行ヘッジ・ファンド大企業の幹部大企業の従業員、などが挙げられています。

このなかの民間部門が「いっそう強くされている強者」にあたると考えられますが、強者を強くしている政府の介入や政策、また社会の仕組みとは、株価や為替などの見えやすい指標に影響を与える金融緩和“大きくてつぶせない”一部の企業を優遇する企業救済中間層の特権を強化する解雇規制や参入規制いっこうに減らない国の借金と未来の世代への先送り大企業に便宜を図るロビイスト、などのことです。

こうした指摘自体は新しいものではなく、タレブがたびたび言及しているフリードリヒ・ハイエクは、1944年に出版されたベストセラー『隷属への道』で、「保障という特権が社会を毒していく」こと、つまり、政府による善意のおせっかいが「地位の安定した生産グループの構成員による、そうでないグループに属する弱い、不運な人々に対する搾取」という結果をもたらしていることについて、次のように説明しています。

このような制限によって硬直化してしまった社会で、保護された職業の外部に置き去りにされた人々が、どれほど希望の持てない立場に立たされるか。また、そういった人々と、うまく仕事にありついて、競争から保護されているがゆえに、仕事のない人々に場を与えるため少しなりとも席を詰めようとする必要がない人との間に、どれだけ大きなギャップが横たわっているか。それは実際に苦境を経験したことのない人にはわからないものだ。


この「保護された職業」でよくみられる現象としてタレブは、金儲けや自分の職業の正当化のために、毎日空く紙面を満たすかのように生みだされる商品・サービス、ニュース、研究(広い意味でのジャンク・フード)が増えることを挙げ、その取りすぎ・読みすぎは「私たちの身体を混乱させる」と注意喚起しています。 

アンフェア化する社会の脆さに関するタレブの見解がおおむね正しいとした場合、彼のいう「詐欺師」とは、指摘されるような側面がいまの社会にあることを感じていながら、何らかの理由で声をあげるのをためらってきた人すべてを指すのでしょう。

では、アンフェア化する社会の原因と解決策としては、どのようなものが考えられるのでしょうか?次回以降は、その原因と解決策について順番に見ていきたいと思います。

組織の部門間のコミュニケーションでは、意見の対立がたびたび起こります。特にほとんど顔を合わせずメールだけでやりとりする場合には、各々の主張が繰り返されるだけになる恐れもあります。強引に前に進めるために、「こちらの言う通りにしてくれなければこのプロジェクトは終わってしまう」などと誇張した内容をメールに書いたり、権限を持つ上司の支持を求めたりもできるのでしょうが、筆者はそうやって過去に問題を起こしてしまいました。

アメリカで働いていたとき、筆者は日本のある食品向けに原料を開発・製造・販売するプロジェクトに携わっていました。アメリカの開発・製造部門が情報開示に難色を示し続けている中で、「日本人は品質にこだわる」とか「日本では顧客が神様だから」などとメールだけで無理に対応を依頼し続け、どうにか最初の商業ベースの製造が行われることになりました。

しかし予期せぬ機械のトラブルで実際の製造手順が事前の取決めと異なるものになってしまい、その最初の製造分を購入してもらえない結果になったとき、工場長の怒りが爆発しました。筆者には工場内で禁止されていた写真撮影を行ったとの濡れ衣が着せられ、そのプロジェクトの製造を中止するというメールが上層部に送信されてしまったのです。

筆者のコミュニケーションを反省するために、経営学の「知識経営(ナレッジ・マネジメント)」の考え方を見ていきたいと思います。その提唱者として世界的に影響力のある野中郁次郎先生は、「対話(言語)と実践(行為)を繰り返していく中で新たな製品・サービスを生み出すプロセス」を下図のSECIモデルに示しました。


左上の共同化は、物理的に一緒の場所で時間を共にする体験を通じ、各個人の無意識の前提にある価値観の違いが浮かび上がり、互いの違いを認めて理解しあうようになるプロセスです。例えば「ユーザーとの対話を通して、ユーザーとしての立場で考えること」は、この共同化の過程であると言えます。

右上の表出化は、まだ明確な形をとっていない自分の考えや思いを文章や図などの具体的な形に表現し、集団に効率的に伝えていくプロセスです。この過程においては、個人の内部でも焦点が明確になり、新たな気づきが起こります。具体的には、「喩えを用いて新製品のコンセプトを創造する」とか「技能をマニュアルやシステムに落とし込む」といった過程が考えられます。

右下の連結化は、表出化された形式知を外から集めて分析したり、別の形式知と組み合わせて編集・体系化したりする過程です。連結化とはまた、コンセプトを製品などに具現化することでもあるとされます。具体例としては、文献や調査資料の読み込み、データ分析に基づく販売促進法の考案、試作品の製作などが挙げられます。

左下の内面化は、連結化により組織的に体系化された販売促進法や製造手順などの形式知を現実に行動に移し、その結果から自覚的に反省し、さらに工夫を加えて実践してみることで、「次第に個人の暗黙知として血肉化していく」過程です。実験や製品テストなどの開発にかかわる経験、市販後の顧客サポート、製品のマイナーチェンジなどがこの内面化のプロセスとして考えられます。

これらは実際には境界が曖昧な連続したプロセスになると思われます。また、個人の視点が自己と他者の間を絶え間なく行き来する中で「主観的な経験が…組織的な知識や知恵として膨らんでいく」ということが、知識経営(ナレッジ・マネジメント)の基本の一つであると言えるでしょう。

この考え方に立てば、筆者のコミュニケーションには互いの思いや価値観の違いをぶつけ合う「共同化」の段階が欠けていたことがまず見えてきます。実際には、それは問題が起きてから初めて実現しました。工場長のメールを受けた筆者は、直ちにオフィスから車で2時間半離れた工場へと向かいました。事態の深刻さに驚いてすっかり参ってしまっていたので、思っていたことを伝える以外にできることはありませんでした。

工場の会議室で工場長と対面した時、まず写真撮影を決して行っていないことを丁寧に説明しました。また、日本の顧客がなぜ自分たちから原料を買おうとしてくれているのか、その食品が日本人にどのように親しまれているか、ここで製造された原料が使われることが自分を含めた日本人スタッフにとってどんな意味を持つか、などといった話をしました。

すると工場長は意外な話を始めました。過去に顧客として視察に来た日本の企業が、結局原料を買わずにアメリカ国内に競合する工場を建設してしまったというのです。また、アメリカの田舎町での雇用機会の創出に関わっている誇りや、工場で働く人たちに感じている責任などについて話してくれました。面談が終わって工場を後にするとき、彼はちょっと待てと言って再び建物の中に戻り、工場のロゴが入った上着を持ってきて筆者に手渡してくれました。

彼らが当初から情報開示に神経を尖らせていた理由が、そのときからようやくわかり始めた気がします。知識経営(ナレッジ・マネジメント)の用語を用いるなら、筆者は技術も持たずに相手を説得しようとばかりしていて、「各個人が自らのかけがえのない体験・信念・価値観にコミットして語りあうこと」としての対話を行っていませんでした。対話には「相互の信頼」が不可欠ですが、筆者たちの間に信頼関係はまだ構築されていませんでした。

また知識経営(ナレッジ・マネジメント)では、対話(言葉)で解消されない対立が、実践(行為)から蓄積された直観によって解消されうると考えます。筆者たちの場合は、試作品や試験設定を作る過程で、メールによるコミュニケーションの限界をよく理解せず、不用意に喧嘩し過ぎていたのかもしれません。その後で実現したように、筆者が工場近くのモーテルに泊まって工場長たちとジャックダニエルを飲んだり、工場長が日本に来て頭にネクタイを巻いたりしながら、試作品や実行案について話し合い、実際の試験の場も共体験できることが望ましいと考えられます。地理的に直接のコミュニケーションが難しいときのICT(情報通信技術)の利用の仕方は、それ次第ではマイナスに働くという点で、決定的に重要であるのかもしれません。

最後にもう一つだけ書かせてください。工場長と日本の鉄板焼き店に一緒に行った時、「おいヒロキ、写真を撮ってもいいかシェフに聞いてくれ」と彼が頼むので、「そんなの大丈夫だよ」と答えました。「なんでわかるんだ?」と聞くので、「えーと、僕らがお客さんだから?」と返してしまいました。そのとき「オレは客に写真は撮らせないけどな」と言った彼のいたずらっぽい微笑みが、いまでも時折思い起こされることがあります。


【主要参考文献】
  1. 野中郁次郎・竹内弘高(1996),『知識創造企業』,東洋経済新報社.
  2. 野中郁次郎・紺野登(1999),『知識経営のすすめ』,ちくま新書.
  3. 野中郁次郎・遠山亮子・平田透(2010),『流れを経営する』,東洋経済新報社.
  4. Polanyi, M. (1962), Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy, The University of Chicago Press.(長尾史郎訳(1985)『個人的知識―脱批判哲学をめざして』ハーベスト社)
  5. Polanyi, M. (1967), The Tacit Dimension, The University of Chicago Press.(高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫)

日本は制度変化の道半ばにある


今年7月に亡くなられた経済学者の青木昌彦先生は、昨年出版された『青木昌彦の経済学入門』の中で、「日本の過去二十年ばかりの在り方は、世に広くいわれる「失われた二十年」というよりは、制度体系の「移りゆく一世代=三十年」の半ばにある」という考えを示されていました。これに従えば、自民党の一党支配が終焉した1993年から東京オリンピック以降の2023年頃までが「移りゆく30年」にあたることになります。

 

制度はマインドセットに関わり、経済のパフォーマンスに影響を与える

 

「制度」とは、青木先生の定義では、「人々が「世の中はこういう具合に動いている」と共通に認識しているような、社会のゲームのあり方」であるとされます。日本の高度成長期を例にとれば、「業界団体」と「関係官庁」の結託、「終身雇用」、「メイン・バンク制度」、「象牙の塔を形作っていた」大学などが、その頃に形成された「制度」すなわち「社会的ゲームのプレーの特徴的なパターン」とみなせます。

 

青木先生の他にも、1993年にノーベル経済学賞を受賞したダグラス・ノースやコロンビア大学名誉教授のリチャード・ネルソンといった経済学者が同様に主張するように、「制度」は人々の「文化」や「認知」や「マインドセット」に関わり、経済のパフォーマンスに影響を与える要因であると考えられています。

 

また「制度」を形作る要因としては、(1)法律のような公式なルール、(2)社会規範のような非公式な制約、(3)警察や裁判所のようなルールを実効化(enforce)する仕組み、が挙げられます。これらと社会のゲームのあり方としての「制度」それ自体とのあいだには、明確な境界線を引くのは難しいとも言われています。

 

日本の制度体系に起きている変化とその原因

 

終身雇用制などの日本の制度の多くは、1950年代半ばから1970年代初めまでの高度成長期に形作られたと考えられています。しかしバブル崩壊後の頃から、「一つの会社なり省庁なりに忠誠を誓って勤続していくことが必ずしも当たり前とはいえない状態」になり、また以前は「絶対に潰れないと思われていた」金融機関が倒産する事態も起きました。

 

つまり、「それまで自明視されていたルールが、崩れ始め」ていて、「日本は制度変化のプロセスに入った」と考えられます。

 

日本で制度変化が起きている原因としては、「情報革命」と呼ばれる情報通信技術の進歩や経済環境の「グローバル化」などが挙げられていますが、ここでは特に「人口動態の変化」に注目したいと思います。

 

日本の生産年齢人口(15〜64歳)割合は、戦後からバブル崩壊のあった1990年代初め頃までは上昇かほぼ安定の傾向にありましたが、その後は現在に至るまで低下を続けており、日本は「いまや近代史には未知の人口成熟化社会に向かって先行している」と言われています。

 

下の図は、国立社会保障・人口問題研究所によって作成された1960年と2015年の人口ピラミッドです。人口構成の違いをこのように比較すると、高度成長期に形成された制度の一部はもはや持続可能でないという考えには妥当性があるように思われます。特に社会保障制度に関しては、「その再設計が先送りされるならば、負担はますます若年世代に重くのしかかり、その働くインセンティブをそぐであろう」といった懸念の声が多く聞かれます。

 1960
2015
出所:国立社会保障・人口問題研究所ホームページ (http://www.ipss.go.jp/

 

制度変化のプロセス:漸進的変化とメディアの役割

 

上述のノースの研究によれば、制度変化は基本的に漸進的なものであると考えられています。その理由は社会的ゲームのプレーの特徴的なパターンとしての制度が人間の文化や認知やマインドセットに関わることに求められると思われますが、軍事的征服や革命などの結果として公式なルールが急進的に改革されるように見える場合でも、文化などの非公式な制約は徐々にしか変化しないとされています。

 

青木先生は、制度変化における「メディア」や「学界」などの役割、またそこで闘わされる「公論」の役割を強調されていました。このプロセスに関する筆者の理解は特に不十分ですが、「顕著な公的言説」が人々の「予想」や「行動選択」に影響を与え、その結果生じる「社会的状態」が経験されることでまた「公論」が闘わされる繰り返しの中で、背景にあった「歴史的に形成された文化的予想」も「それ自体が進化していく」ようなプロセスが考えられていたのかもしれません(またそこでは「実験的な選択」や「模倣」も重要な要因になると思われます)。

 

日本の制度変化の方向性

 

ここで、青木先生が「オリンピックの準備と補いあって定まっていくだろう」と予想されていた「改革の行き先」を見ることで、日本の制度変化の方向性を今後私たちが各自で考えるきっかけにできればと思います。「活動人口の減少」や「いっそうの都市化・サービス業化」などへの対応が必要であるという見立てから、青木先生は「少なくとも三つのことが重要だ」と指摘されていました。

 

まず、「女性の労働参加率・キャリア・起業と出産率の上昇を両立させうるような仕組みの充実」であり、「雇用慣行と制度の革新」や「乳幼児から小学生にいたる系統的な養育サービスの規制緩和」がそれに含まれます。

 

次に、「就労移民の規制緩和とその予備軍たる留学生の拡大」です。この提言には、「日本語とともに、外国語をしゃべり、日本人とカルチャーを部分的に共有する人たちが都会・農漁村や学校に増えることは、生活を活性化する」という積極的な意味があります。

 

最後は、「ますます集積が進む都会と、人口は減少するが活力のある地方の相補的なすみ分け」です。地方が「都市と共生しうる」ようになるための手段としては、農業における「付加価値の高い生産物の開発」や「地方の自然・文化資産を活用した観光産業の開発」などが挙げられており、そのカギは「熟練者のノウハウと若い人たちのエネルギーや都市化時代に適合したマーケッティングとの創意結合」や「多様な創意工夫の競争」などにあるとされていました。

 

終身雇用の相対化と子供たちの技能形成

 

以上の三つのうち、「日本の制度体系の根幹にあった」と考えられる「終身雇用制」の変化の方向性について、もう少し考えてみたいと思います。「一つの組織で一生勤めあげる」という選択は、大多数の人にとっての「当たり前」とは必ずしもいえない状態になっており、「部分的な選択の対象として残る」ことが一つの方向性として考えられます(「終身雇用制度の相対化」)。この場合には、子供たちの技能形成はその変化にどう適応する必要があるでしょうか。



教育・技能訓練については、青木先生は別の著書『比較制度分析序説』のなかで、「組織の参加に先立つ教育」における日米の様式化された違いを「可塑的・文脈的技能」と「機能的技能」として区別されていました。つまり、日本では「特定の企業組織参加後にその文脈で有用な技能(文脈的技能)に磨きをかけるという展望を持って、まず一般的な問題処理能力や組織コミュニケーションの能力(可塑的技能)に投資しておく」ことが一般的な選択であったのに対し、アメリカでは「どのような組織においても通用するような特殊機能の技能(機能的技能)に投資する」ことが一般的な選択であったと考えられるということです。

 

また組織の違いに関しても、従来の日本企業は「マネジメントと各職場のあいだのタテの関係」と「職場間のヨコの情報(認知)連結関係」の両方で、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションなどを通じた暗黙知にもとづく「情報共有」を強める特性を持つとされていました。これは「機能分担」を曖昧にすることで「伸縮的な職務配分」を可能にし、「自動車産業」などの「製造技術の高度化(ハイ・エンジニアリング)」で「比較優位の源泉の一つ」となってきた一方、「特殊な機能的技能に投資し、その有効利用を主張する主体」が「「出る杭は打たれる」式の扱いを受ける」おそれがあり、「ソフトウエア産業」や「IT産業などの新産業の構想」で「アメリカに一歩も、二歩も譲るところとなっている」要因の一つであるとも考えられています。

 

しかし人口動態や雇用構成の変化とともに終身雇用が当たり前でなくなってくるとすれば、それと補完的だったこれまでの可塑的・文脈的技能の教育にも変化が求められると考えられます。また日本型組織についても、「従来の企業内またはそのグループ内に閉じ込められていた情報共有型組織を、部品調達や開発協力の外部のネットワークに開いていくこと」や、「企業の境界を越えた通信・調達・開発のネットワーク化を学習し、応用すること」が必要とされるように思われます。

 

筆者の限られた理解では、以上の変化によって要求される知識や技能を具体的に示すことができません。しかし制度変化の研究は、そのような知識や技能が社会に十分に蓄積されて初めて日本の制度変化が大きく進むかもしれないことを示唆しており、この点では「教育制度や他の学習機会の拡延」が重要になると思われます。

 

新しいビジネスと教育・研究の発展のための産学連携

 

教育制度に関連して、青木先生は新しいビジネスの創造における「産学連携」の可能性も指摘されていました。大学は教育と「限りなく基礎に近い研究」を行い、企業は「研究の成果を製品開発と商品化に具体化する」。その「あいだをつなぐメカニズム」としての「仲介組織がさらに大学周辺に簇生」することが必要であり、そこには「産業と大学の双方からの人材の流入が必要である」というのです。

 

この点について筆者は、新しい教育・研究の発展にも同様のことがいえるのではないかと考えています。教育者・研究者は自らの依拠する前提や方法を擁護する傾向があり、それがある程度長期間にわたるのは当然であると思われますが、研究の成果に対する産業界の「商業化」の活動からフィードバックを受けてモデルや方法を更新していくことがあってもよいのではないでしょうか。いずれにしても、大学は研究の成果を産業界や仲介組織にオープンにしていく必要があると考えられます。

 

政府債務の累増が懸念される今日ではありますが、終身雇用を中心とした日本の制度体系と技能形成の進化の方向性に関する私たちの理解が継続的に深まり、産学政官の連携を通じて老齢・現役・若年世代の間で利益の調整が行われ、いまの子供たちが大人になったときの日本が活性化されていることを願っています。 

今回は、ハイエクの議論に見られる「社会をゼロサムゲームに変えてしまう要因」と「それを乗り超えるための基礎となるもの」について書きたいと思います。

 

以前、「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」というリンダ・グラットンの議論に簡単にふれましたが、これに関連してハイエクは、人びとが一定の利益やポジションを奪い合うゼロサムゲームとは異なる社会が実現可能であると考えていたように思えます。


その社会を言い表すために彼が提案した「カタラクシー(catallaxy)」という言葉は、「交換すること」と「コミュニティに入るのを許すこと」と「敵から友人へと変えること」を意味したギリシャ語のkatallatteinに由来していました。


カタラクシーは、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかが見えてくる」という点では厳しい競争の側面をもちますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同プールが拡大していき、能力や技能や運に委ねられてその分配が決まる」という点ではゼロサムゲームと異なっています。それは、人びとが先ず社会の共同プールへの貢献に努め、その分配が運にも依存して増減することを承認し、多様な活動に関わるより多くの人の機会が改善されるような社会になるのかもしれません。


では、社会をゼロサムゲームに変えてしまうものとは何でしょうか。ハイエクがそう明言していたわけではないですが、彼の議論のなかにはその主な原因として、「集団的利己主義(group selfishness)」と「集団的利益を保護する政策」が指摘されていたと考えます。またゼロサムゲームからの脱却の基礎となるものとして、「法の前の平等」や「開かれた社会のルール」の概念を普及・徹底させることが主張されていたと思います。


以下ではそれらを順に見ていきます。また次回の「敵から友人へと変える社会に(仮題)」のなかで、ハイエクが目指したカタラクシーという社会についてもっと詳しく書きたいと考えています。


集団的利己主義、部族社会の感情の復活


ハイエクは、経済を働かなくさせる最大の脅威は「集団的利己主義」だと述べていました。明確な定義は与えられていませんが、自分の立場や集団の利益に奉仕するのであればよそ者には危害を加えたり排除したりしてもいいという組織的な思考のことであるといえます。


例えば、同種の仕事で社会に貢献したいと望む人びとを締め出すことで自分たちの地位や所得を守ろうとする労働組合や同業者の団体・組合による排他的慣行が挙げられます。ハイエクはそれらの顕著な特徴を以下のように示していました。

  • 組合員以外の部外者による分野への参入を妨害する
  • 不要不急の仕事を増やす
  • 供給される財やサービスを統制しようと努める
  • 組合・団体への加入に高いプレミアムを課す
  • 仲間に心理的・道徳的な圧力をかけ、不本意な支持を強要する


集団的利己主義によって犠牲にされるのは、明らかに直接締め出される生産者に限らず、多くの場合は本人たちもそのことに気付いてないような組織されない(できない)人びとであると考えられます。「消費者一般、納税者、女性、老人」などをハイエクは挙げていましたが、最近の日本に関していえば「若者」も含められるかもしれません。


ハイエクは、集団的利己主義は人間に深く根ざしている部族社会の感情であると考え、それを「私たちの中にいる飼いならされていない野蛮人」と呼びました。また、最近になって部族の組織的な思考の強力な復活が見られている一つの理由として、社会の成員に占める大規模組織で働く人の割合がますます増加していることを挙げました。


集団的利益を保護する政策


ハイエクはまた、経済の働きを妨げる別の要因として、政策が組織された集団の利益を保護する傾向をもつことを指摘していました。つまり、「無数の小さなそれゆえに無視されがちな効果よりも、少数の強力なそれゆえに目立ちやすい効果のほうに優先的な考慮を与えがちである」というのです。とくに、自分たちの現在のポジションや一度到達した所得水準が脅かされていると感じている人びとの集団にたいして特権が与えられやすいと指摘しています。


会社法、税制、金融政策などに関しても、集団的利益を優先する傾向をもつことが主張されています。筆者自身は法律や政策をよく知らないのですが、ハイエクの議論の一部は以下のように要約できます。


a) 会社法

  • 会社を擬人または法人として認めることは自然人のもつ多くの権利が会社にも拡張される効果をもったが、技術的な理由によって正当化される範囲を超えて大規模化を有利にしている
  • 個人の権利を組織されたグループにまで拡張する必要はなく、時には組織されたグループから個人を守ることが政府の義務でさえありうる


b) 税制

  • 被雇用者の自由の拡大、芸術・文化・スポーツの発展、自然の美しさや歴史的財宝の保存などのためには、少数のイニシアティブをもった個人やそれらを後援する独立の資力をもつ個人をもっと存在させることが重要であるが、累進課税は成功している人が財産を蓄積するのを難しくすることで、社会を固定化している
  • 累進課税が資本形成の局面に与える影響を考えると、既存法人企業の地位を強化して、新規参入者の立場を不利にする傾向がある


c) 金融政策

  • 貨幣価値の低下による実質賃金の引き下げの後には、組合による貨幣賃金の引き上げの要求が続き、その反復は累積的なインフレーションを生むかもしれないが、いつかやめなければならないと人びとは気づくことになる
  • 一時的な雇用の増加や政府の介入による賃金引き上げは、組合が政府の機構のなかに編入されるような側面をもち、既存の経済構造の歪みを硬直化させ、より大きな不平等と全体としての労働者の実質所得の切り下げという犠牲を払ってはじめて実現する(集団的利益からなる擬似政府の肥大化)
  • 政策の刺激的な効果が作用するのは、それが予想されなかったあいだだけである

(一方で、輸出や外国人観光客の増加による効果などの論点は、ハイエクの議論ではあまり明示的に扱われていないかもしれません)


法の前の平等、開かれた社会のルール


組織的利益を優先する政策が問題となる一つの理由は、それらが社会の成員全員には適用されないこと、特権や差別的な扱いにつながることにあると思われます。ハイエクは、ルールはすべての人に等しく適用されるべきであるという「法の前の平等」の考え方を繰り返し強調し、法の前の不平等は相対的に貧しい人たちの犠牲において裕福な人びとを利すると主張しました。


法の前の平等は「法の支配」と同義で使われる言葉であり、17世紀まではギリシャ語のisonomia(イソノミア)やそれを英語の形にしたisonomy(イソノミー)という言葉が使われていたようです。これらは、法を施行する人びとが先ず自らとその子孫を縛りつける用意のあるルールの施行のみに限定されなければならないという概念でもあると考えられます。


現代のような拡張された交換に基づく社会を可能にしてきたのは、法の前の平等と「いまを生きている人びとが気づいている以上に多くの経験が蓄積されてくるなかでの試行錯誤の過程の産物としてのルール」の規律である。これがハイエクの重要なメッセージの一つであったと考えます。ここでは後者を「開かれた社会のルール」(または「大きな社会のルール」)と呼びたいと思います。


ハイエクの議論の中から、筆者が「開かれた社会のルール」と考えるもののごく一部を以下に示します。

  • 社会の成員の誰かが価値のあると思われることを行う付加的能力を獲得した場合には特定の人びとにとっての競争者となることを認め、社会にとっての利益と捉える
  • 誰も統制できない事情によってやむをえない立場におかれているのが自分であると決定されたときには変化にしたがい、努力の方向を変える
  • 少数の既知の人びとの必要に応えるよりも何千人もの未知の人びとの必要に応えるほうがよい


このようなルールの発達は、一つの部族コミュニティの内部ではじまったのではなく、未開人がお返しを期待して自分の部族の境界線に贈物をおいていったときの最初の無言の物々交換にはじまったのだろうとハイエクは考えていました。


結論としては、集団的利己主義とそれを保護する政策の問題点は「人間の努力の方向を導く指針を機能不全に陥らせること」にあるのに対して、法の前の平等と開かれた社会のルールの目的は「恣意的な権力を防止し、すべての人に好ましい機会が訪れる可能性を増大させること」にあるといえます。また次回に見るように、後者は「各個人が日常生活で出会う具体的出来事を活用すること」に役立つと考えることができます。

(次回に続きます)


行政サービスが市民への強制力を帯びやすい現行の政府の構造を改めようという前回の投稿の続きです。今回は市場経済の規律としての「他者にとっての価値の探求」について書きたいと思います。

 

私たちは分業と交換に基づく社会生活(=市場経済)に参加することで、各自がさまざまな財とサービスを自由に使えるようになる見込みと機会を高めています。ハイエクは市場経済の性質を深く分析し、私たちが心がけておくべきことをいくつか指摘していました。

 

第一に、能力ある成人はまず自分と扶養家族の生活に責任に負わなければならないことです。これは、自分たちの過失で友人や社会の他の成員になるべく負担をかけてはならないことを意味します。(もちろん自分の面倒を見ることのできない人びとには、誰もそれ以下には落ちなくなる保障が与えられることが前提です。)

 

第二に、個人や組織が見返りに得られると期待できる報酬が、財やサービスを受けとる側の人びとにとっての価値でなければならないことです。理由はハイエクがいうように、どちらかといえば「人間は生まれつき怠惰で不精、また先のことを考えないで浪費的である」ように思われるからです。

 

報酬がそのサービスから恩恵を受ける人びとにとっての価値であることの意義は、私たちが個人的な動機や関心からはじめたとしても、各自の身近な周囲の環境を他者の目的のために役立たせようと努力し、自分の能力を何かに貢献できるよう利用することに導かれることにあります。

 

逆にいえば、この条件が満たされている場合に限り、どんな仕事をなすべきかの決定を各自に許すことができるともいえます。

 

ハイエクは、経済活動における個人の適切な持ち場(例えば、その人は起業家か従業員かなど)が、仲間や同業者たちから評価されるその人の功績とは必ずしも結びつかないことを示唆していました。

 

つまり、長い時間と努力を費やして高い技術を獲得した人であっても、彼は自分だけでは「対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずる」ことができないかもしれません。その場合、「その能力から最大の便益を引きだせる人たちに自分の能力を知らせる」ことができなければなりません。

 

あるいは、人の能力を具体的サービスにうまく転ずる起業家的な能力をもちながらも、現在は従業員などの立場で仕事をしている人びともいるかもしれません。

 

自分の能力のための適切な場所を探し出す必要があるという基本的な事実がもっとよく理解されなければならない、とハイエクは主張していました。しかし今後みていくように、そのような努力が十分になされていない原因として、人為的な障害が存在することも指摘していました。

 

また他者にとっての価値といっても、当初は少数者の意見や嗜好にとどまらざるを得ない分野(とくに「文化」と呼ばれる非物質的な価値の分野)も重要であるとハイエクは考えていました。

(次回に続きます)

中央経済社
2014-06-14






8章「 暗黙的知識の利用と企業におけるリーダーシップ」の執筆を担当しました。



1章「 ダイナミック・ケイパビリティの解明」の共訳を担当しました。
5章「 取引コスト論とケイパビリティ論」の執筆を担当しました。

以前の投稿で、アダム・スミスとカール・メンガーという経済学者の議論を用いて、私たちが「分業と交換に基づく社会への参加」を前提に生活していることを書きました。今回は、1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクの議論を用いて、現代社会を発展させる方向性と可能性について書きたいと思います。それによって、最近よくいわれる構造改革というものの内容について考えることができればと思っています。


二種類の法(ルール)の識別、政府の二つの機能の区別


ハイエクは自由放任主義者だと言われることがありますが、それは誤解であると考えます。彼はむしろ社会生活のルールとしての「法」が厳格に施行されることを求めており、正しい行為のルールに反している行為が数多くなされている現状を改めなければならないと考えていたように思えます。


ハイエクがいう「ルール」とは、広い意味では私たち個人の行為を無意識に導いているものすべてを指しますが、とくに注目されるのは集団全体の秩序の形成につながるものです。それは動物社会にも見ることができ、例えばハイイロガンの矢形の編隊、バッファローの防衛的な輪、複数の雌ライオンが獲物を雄の方に狩りたてるやり方などの集団的な行動のパターンのなかで、それぞれの場合に一定の秩序が存在することと、各個体を導く行為のルールが存在することを想像すると理解しやすいかもしれません。


人間社会では、集団秩序を形成する行為のルールはまず無意識的な習慣から発展し、知性の成長とともに、後からルールを漸進的に明文化する努力が行なわれるものと考えられます。


多くの人に認められた行為のルールの遵守を確保するためには、社会の一部の成員(政府)にたいしてそれらのルールを施行する(enforce)仕事を委任することが有効であると思われます。また、この「施行されるルール」を「法」と考えることができます。


ハイエクによれば、法はほとんどの場合「正しくない行為を禁止する」という意味で消極的なルールであるといいます。禁止される主な行為としては、他人への強制(coercion)、暴力(violence)、詐欺(fraud)、欺瞞(deception)が挙げられます。強制は、ある人の行動が他者の目的のために他者の意思に奉仕させられることです。暴力は、物理的な強要であり強制のもっとも重大な形態です。詐欺と欺瞞は、人があてにしている事実情報を巧みにごまかすことにより詐欺師が人にしてもらいたいことをさせることです。これらが不正なのは、「まさに考える人、評価する人としての個人をこのように排除し、他人の目的の達成における単なる道具にしてしまうから」であるといえます。


法が「消極的なルール」であることの重要な点は、「どんな特定の行動をとるべきかに関する意思決定の源泉が、法を発する人から行動する人へと移動する」ことにあります。つまり、細かいことはその環境に応じて各自に任せられる、ということです。


ハイエクによれば、社会における強制を最小にする目的のために、不正な行為を防止することに限定して強制力をもちいる権限が政府に委ねられるという制度が発展してきたといいます。より正確にいえば、政府の強制力をもちいる活動は、正しい行為のルールの施行、防衛、その活動の資金調達のための租税徴収に限定されるべきという基本原理が考えられてきたというのです。


正しい行為のルールは、政府の人びとを含む万人に等しく施行されるものでなければなりません。この普遍的なルールのことを、「法律家の法(the lawyer’s law)」または古代ギリシャ人の「ノモス(nomos)」とハイエクは呼びました。実際には、民法や商法や刑法などの私法がこれにあたるものと考えられます。


以上の正しい行為のルールの施行を、「強制装置」としての政府の第一の機能とみなすことができます。


政府の仕事としては、これとは別にもう一つ重要なものが考えられます。それは、主に代価を支払う人びとに受益者を限定できないという理由から、民間の個人や企業がうまくつくりだせないサービスの提供です。保健や衛生サービス、文化施設や公園の運営・管理、道路の建設・維持、個人や企業などの努力を助ける各種統計情報の提供、社会保障の提供、教育と研究などが、その一部の例として挙げられます。つまり、行政サービスの提供です。


政府の行政機関の制御・規制や指揮・監督を行うことは、私たちが立法府と呼ぶ代議員議会の主要な任務とされてきました。行政の特定の機関や役人がなすように求められていることについての指示で構成される法律が、この目的のために必要とされると考えられます。それは主に官僚の手によって計画されるものが立法府によって承認される手続きを踏むもので、行政機関への指示だけでなく、その取引関係にある市民のための規制も叙述するものになると思われます。


この行政の制御・管理・規制のためのルールのことを、「政府(行政)という組織のルール」または(ギリシャ語で)「テシス(thesis)」とハイエクは呼びました。これは正しい行為のルールとは違い、「これこれがなされるべきである」といった積極的な指示の性格をもちます。今日、立法府によって制定される法律の多くはこの行政組織のためのルールであると考えられます。


こうしたルールが必要とされる一つの理由としては、行政組織は市民へのサービス機関でありながら、次回でみる市場経済の規律(民間のビジネスや商売では利潤によって示される効率性の検証)を欠いていることが挙げられます。


以上の行政サービスの提供を、「サービス機関」としての政府の第二の機能とみなすことができます。


「強制」と「サービス」の結合、「交渉」民主主義


今日の立法府は、正しい行為のルールの制定と行政組織のルールの制定の両方を任されています。ハイエクは、この点を既存の民主主義政府の構造の欠陥として指摘していました。


その結果起こる事態として、ハイエクは以下のことを挙げています。

  • 正しい行為のルール(消極的)と行政組織のルール(積極的)が混同される
  • 普遍的な正しい行為のルールの施行にたいしてのみ与えられるべき強制力をもちいる権限が、行政の組織や運営にも与えられる
  • 立法権力と行政権力が結びつく
  • 政府機関が一般的な正しい行為のルールの適用から除外される
  • 民間の個人と組織の行動が行政機関による特別な命令や許可に従属させられる
  • 政府は目標や計画を実行するには多数派にとどまることが必要になり、その目標や計画とは必ずしも関係のない種々の利益集団に特別な便益を与えて票の獲得を目指す
  • 政策が主に特定の利益集団との一連の取引によって決定される


つまり、民主主義の理想は本来恣意的な権力を防止することを意図していたのに、「代議員議会が二つのまったく異なる任務を負わされてきた」結果、新しい権力の源泉になっている。しかしそれは構造の問題であり、政治家や行政の人たちが与えられてきた地位においてなすべきことをしたからといって、それを非難する権利は私たちにないというのです。


立法院の設置の提案


社会の成員すべてが従わなくてはならない正しい行為のルールの発見や定式化や承認といった任務に求められる能力は、行政にかかわる業務に求められる能力と必ずしも同じではないと思われます。ハイエクは、前者の能力を認められて選出される人びとからなる立法院(Legislative Assembly)を設置し、現在の手続きで可決される行政のための法律や規制に立法院の承認を求めることを提案しました。その任務に適した人たちの特徴として、ハイエクは以下のようなことを考えていたようです。

  • 普段の生活のなかで尊敬と権威を集めてきた人
  • 経験豊かで、賢明で、公正であると信頼されている人
  • 各世代の同世代から尊敬を集めている人
  • 行政の行動を含むすべての行動の法的枠組みを改善するという長期的な問題にすべての時間をささげることのできる人
  • 立法者としての仕事を学ぶ十分な時間があり、官僚を前にしても無力ではない人


ハイエクが立法院と呼ぶものを設置することの実現可能性についてはまだわかりませんが、私法を制定する権限をなんらかのかたちで既存の代議員議会から切り離し、政府の強制装置としての業務とサービス機関としての業務を分割することが経済構造改革の前提になるというアイデアは、興味深くかつ検討に値するものであるように思われます。

(次回に続きます)


2014年9月15日アゴラに「人生を豊かにするネットの新活用法」のタイトルで掲載

東浩紀さんの『弱いつながり』を読みました。安定した今の生活にも満足しているけど、人生をもっと豊かにできたら。そう考えている人の背中を優しく押してくれる本だと思います。人生をより充実させるために、著者はネットの使い方を少し変えてみようと提案しています。つまり、Facebookなどを既に関係の深い知り合いとの「強い絆をどんどん強くする」ためだけに使うのではなく、まだ関係の浅い知り合いや思いがけない出会いとの「弱い絆がランダムに発生する場に生まれ変わらせる」。そしてそれらの弱い絆のところへ、たまにはリアルであちこち「観光」しに行こうというのです。

 

著者の提案の背景には、「人間は環境の産物だ」という考え方があります。いつも同じルーティンを繰り返している人は「脳の回路」が固定されてしまい、特定の状況にたいする反応の仕方がほぼ決まっている。ここで著者は、私たちの生活に「自分の世界を拡げるノイズ」を定期的に忍び込ませることの必要性を説きます。たまにいつもと違う環境に身を置き、自分と弱くつながっているものに触れることで、「考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭け」てみる。というのも、それが自分の「人生をかけがえのないもの」にし、かつ、現在の「強い絆をより強く」もしてくれると考えられるからです。

 

「観光なんてものごとの表層を撫でるだけだ」という否定的な意見にたいしては、著者はまず、観光に「過剰な期待をせず……クールに付き合うこと」を提案します。それと同時に、「表層を撫でるだけだろうとなんだろうと、どこかに「行く」というのは、それだけで決定的な経験を与えてくれることがある」と述べます。その根拠となるものは、「記号にならないものがこの世に存在する事実」です。

 

例えば、著者は学生のころにアウシュヴィッツを訪れて、言葉にならない「強烈ものを受け取った」といいます。これを読んで私は、東日本大震災で従姉妹を亡くした友人と一緒に南三陸町を訪れたときの強い印象や、メールだけのやりとりをしていた相手と実際に会ったときのギャップ、またYouTubeではあまり良いと思わなかったライブや舞台を実際に観に行ったときの衝撃などを思い出しました。「言葉の解釈は現前たる「モノ」には及ばない」と、私も最近そう感じます。

 

言葉にならないものが確かにあるこの世界と、言葉や記号だけでできたネット。ネットの強さを今後活かしていくための提案として、本書には主に以下の3点が書かれていると考えます。

1.        ネットの不完全さをひとりひとりが自覚すること

2.        ネットで言葉にならないものを言葉にする努力をすること

3.        ネットで弱いつながりの発生を促し、たまにリアルで訪問(観光)すること

 

第1点は、著者の次の言葉に要約されます。「記号を扱いつつも、記号にならないものがこの世界にあることへの畏れを忘れるな」。加えて、多くの人は「みな自分が書きたいと思うものしかネットに書かない」事実も忘れてはならないと著者はいいます。これは、ネットだけでものごとを結論してはいけないという慎重かつ謙虚な態度が不可欠であり、このルールをすべてのネット利用者が共有すべきで、また常に記号にならないものへの想像力が必要である、ということだと思います。

 

第2点は、ネットで「言葉にならないものを言葉にしようと努力すること」が大切で、また「言葉の世界をうまく回すためにはモノが必要だ」ということ。これは、ネットはリアルで伝えられるものを複製はできないが、ひとりひとりが努力することでそれに近づくことはできる、ということかもしれません。ここで言われる「言葉にならないもの」とは、おそらくひとがモノに触れたときに抱く「動物的な感情」のことです。著者がそれを重要視するのは、ひととひとは動物的な感情を共有すること(=「憐れみを感じる」こと)ではじめてわかりあえる(かもしれない)からだと思います。

 

ネットで動物的な感情を言葉に入れる方法は、まずモノや体験が大事であることの他はまだ私にはわかっていませんが、例えば伝えたい感情を抱いたときの具体的な状況を思い浮かべながら言葉をつむいだり、そのときの状況に関する記述を少し加えたりすることではないか、と考えます。現前たるモノや動物的な感情に「希望を託す」という点は、著者の韓国旅行の体験との関連で説明されていますが、「国民と国民は言葉を介してすれちがうことしかできないけれど、個人と個人は「憐れみ」で弱く繋がることができる」という一文が印象的でした。

 

第3点は、ネットを「弱い絆がランダムに発生する場に生まれ変わらせ」ようという提案です。その重要なポイントとして、「ウチとソト」を分け過ぎないことが強調されていると思いました。もちろん、ネットでは注意が必要で、見知らぬ人ともどんどんつながりましょうということではないですが、一度は会ったことがある、非常に親しい共通の友人があいだにいる、仕事や関心など多くの共通点がある、あるいはこれが一番大事かもしれませんが、上の第1と第2の条件を相手が満たしていると思える、といった人たちに対しては、ネットで弱いつながりを「あちこちに張り巡らすことで」面白くなるかもしれません。

 

さらにその弱いつながりを活かして、リアルでも「複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いてい」こうということだと解釈しました。また、実際に「観光」に行っているあいだは、ネットにおける強いつながりは「切断すべき」だというアドバイスもありました。というのも、「旅で肝心なのは、日常とは異なる環境に自分の身を置き、ふだんの自分では思いもつかないことをやってしまうこと」だからです。「人間関係を(必要以上に)大切にするな」という点は、異論もありそうですが、もし個人の世界を拡げたいのであれば重要だと思います。

 

著者が言う「弱いつながり」は、“自分と弱くかかわっている新しい経験全般”として解釈すれば、私生活と仕事の両方に幅広く応用できるアイデアだと思います。例えば、家族や友人の趣味を体験すること、知人の好きな場所に足を運ぶこと、自分と関心を共有していると思われる人の集まりに参加すること、またそうした人と一緒に仕事をすること、等々です。忙しい人が多いとは思いますが、身近なところから、少しずつ、焦らず気長に、試してみてはいかがでしょうか。忙しく消耗する状態から離れ、「ゆるやかに流れる時間のなかに身を置くために」こそ、日常に「弱いリアルを導入」することが必要であり、「新しいモノに出会い」、自分の持ち合わせの「言葉の環境をたえず更新」していけば、また「ネットの強みを活か」せるようになるかもしれません。

 

本書には他にも、「コピーになることを怖れてはなりません」、「偶然に身をゆだねる。そのことで情報の固定化を乗り越える」、「成功とか失敗とか考えない」、「人生はいちどきり……偶然の連鎖を肯定し、悔いなく生きよう」など、ここで紹介しきれない素敵な言葉やメッセージがたくさん散りばめられています。ぜひ多くの人に本書を読んでもらい、それぞれの解釈で著者の言葉やメッセージを楽しんで欲しいと思います。そして、ネットで弱いつながりをうまく張り巡らせながら、リアルでそれらに触れに行き、また強いつながりをさらに豊かにしてもらえるとうれしいです。

2014年7月1日アゴラに「社会人になるとき知っておきたい「分業」のこと」のタイトルで掲載

本稿と次稿では、アダム・スミス、カール・メンガー、フリードリヒ・ハイエクという3人の経済学者の議論を用いて、将来の働き方を考えるための基礎となりうる「分業」の概念を提示していきたいと思います。


「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」という意見が聞かれるようになっています。例えば、『ワーク・シフト』の著者リンダ・グラットンは、月曜から金曜の朝9時から夕方6時以降まで働いて週末に休むという従来の生活から、家族や同僚などが普段から協力してバランスと意義と経験を重んじる働き方・生き方へと次第に移行していくことを予想しています。


従来の働き方の主な問題点としては、所得を得る目的であっても仕事に追われると自分をすり減らしてしまうこと、主な余暇時間の過ごし方が受動的にテレビを視聴することに限定されること、などが挙げられています。これに対し働き方の未来像としては、男性が育児に参加するなど職業生活のなかに私生活の要素を持ち込むこと、女性が企業などで要職に就くこと、スポーツや文化活動や市民活動により多くの時間をあてること、頻繁に友人と会いリフレッシュすること、などが描かれています。


現在の働き方や余暇の過ごし方に多くの人が満足できているのであれば、問題はないようにも思われます。しかし、仮にグラットンが描くような働き方の未来に魅力を感じる部分もあるとか、可能なら子供たちには将来そうした働き方をして欲しいと考えるのであれば、私たちは何を変えていく必要があるでしょうか。


社会科学には、「あるグループの社会的な行動のパターンを効果的に改善する唯一の方法はその個々のメンバーを導いている思考様式(無自覚に従っているルール)を改善することである」という理論があります。また、その思考様式は育てられる文化的環境や特に教えられる言葉を通じて伝えられるものであり、そうやって伝えられたものの見方の中で私たちは無自覚に行動しているので、それを変えることは必然的に時間のかかる課題になると考えられています。


例えば、勤務時間を長引かせる要因としては、上司より先に帰宅すべきではないとか、顧客に言われたことには多少の無理をしてでも応えるべきだといった思考様式が考えられます。しかし社会科学の分業の観点から見れば、「上司」や「顧客」と呼ばれている立場の多くは、同じ最終消費財を生み出す過程で互いに補完的な仕事をする協力者でもあります。その知識や能力や実績に敬意を払うのは当然であるとしても、その立場自体を権威づける必要はないのかもしれません。


また、仕事上の競合相手とはゼロサムゲーム(相手の利益が増えればその分だけ自分の損失が増える勝負)の関係にあるというのが一般的な考えだと思われます。しかし、次稿で見ていくハイエクの見方はそれを否定します。経済活動の競争は、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかがはじめて見えてくる」という点ではスポーツや試験に似ていますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同出資分が拡大していき、技能と運に委ねられてその分配が決まる」という点でゼロサムゲームではないというのです。私たちは「競合企業の商品は絶対に買わない」ということまでしなくてもよいのかもしれません。


上述の3人の経済学者の議論を現在の私たちの経験の中で捉え直すと、いまより少し緊張を緩めた社会生活を送れる可能性が見えてくるように思われます。特に、「ある時間その場所における具体的な状況に関する知識が社会の経済活動にとって重要である」というハイエクの洞察は、グラットンの要求する高度な専門技能・知識の習得を必ずしも行わなくても、社会的に意味のある仕事を増やせる可能性を指摘していると考えます。以下、アダム・スミスの議論からはじめて、今回はカール・メンガーの議論まで見たいと思います。


アダム・スミスは、私たちの多くが「分業と交換に基づく社会への参加」を前提に生活している理由として、それが「自給自足」よりも社会全体の労働の生産性を飛躍的に向上させうることを指摘しました。つまり、分業と交換により個々人の技能や技術の水準が向上し、かつ生活を豊かにする労働を行う人の比率が高い場合には、働いていない人や低所得者でも、途上国では考えられないほどの財やサービスを消費できるようになるというのです。


アダム・スミスはまた、1つの最終製品だけを見ても、原材料の生産や製品を作るための機械の製造など、その工程がさまざまな仕事に分かれていることに注目しました。カール・メンガーはこの点にさらなる光を当てるために、「財の次数」という概念を提示しています。ここでの財とは、「人間の必要を満たすことの因果のつながりの中に置けるもの」として定義されますが、そのなかには人間の必要を満たすことに直接使われる「消費財」または「1次財」と、人間の必要を直接満たしはしないが1次財の生産過程のどこかで使用される「生産手段」または「2次財、3次財、4次財、…」との区別が見られるとされています。


例えば、パンをそれ以上手を加えずに食べる場合にはパンを1次財とみなすことができますが、その生産のために使われる2次財、2次財の生産のために使われる3次財、3次財の生産のために使われる4次財までについて、メンガーは例を以下のように挙げています。

1次財: パン

2次財: 小麦粉、燃料、塩、パン作りの器具・機械、器具・機械を使う技能、等

3次財: 製粉機、小麦、ライ麦、小麦粉作りの労働サービス、等

4次財: 穀物を育てる畑、耕作用具・機械、農業者の労働サービス、等


この財の次数という概念の提示により、採集狩猟経済(または小さな部族社会)の分業と発展した交換経済の分業との違いが次のように示されました。つまり、前者では自然が与えてくれる低次の財(通常はおそらく1次財と2次財)を獲得することにその活動を限定するのに対し、後者ではより高次の財の創造・利用へと人びとの活動を徐々に拡張させ、そのうえでそれらを最終的な1次財の生産と人間の必要を満たすことに間接的に向かわせるというのです。


メンガーは「架空の財」の存在にも注意を促しました。分業が進んだ社会では、一部の人間がそう考えているだけで実際には人の必要を満たす力がそのものに備わっていなかったり、現実には人の必要を満たすことにつながらない労働が行われたりする場合があります。また、以前は人の必要を満たすことのできていたものが、できなくなることもあります。人間がより高度な文明を実現するにつれて、架空の財やサービスの数は徐々に減っていくことになる、とメンガーは予想しました。


以上のポイントを要約します。(上で省略した部分を補足しています。)

1. 社会の働き方を変えるには、文化的環境のなかで身に付けられた思考様式を変えていく必要がある

2. バランスと意義と経験を重視する社会生活が望まれるのであれば、経済学の「分業」の概念をあらためて理解することが重要である

3. 分業と交換に基づく社会では、人はあるグループの人びとに対して彼・彼女らの必要を満たすための労働サービスを行う一方、自分自身は別のグループの人びとから労働サービスを受けることで自らの必要を満たしている

4. 「分業と交換に基づく社会への参加」がなければ、人は「自給自足」を行わなければならなかった

5. 働く人の多くは他者の必要を満たすことに間接的に参加しており、実際に会ったことのない人たちとも協力しながら、実際に会ったことのない人びとに貢献している

6. さまざま理由から、自分の労働が他の人たちの必要を実際には満たしていなかったり、満たせなくなったりすることがある


分業と交換に基づくこの大きな社会では、人びとの一部の期待はどうしても裏切られることになります。つまり、社会生活にはある程度の失望や失敗はつきものです。ハイエクはこの事実を受け入れる必要性を説いたうえで、それが個人にあまり大きな負担にならず、かつより多くの参加者の必要や期待が満たされていく社会を目指していたと考えられます。次回はこの点を書きたいと思います。


【参考文献】

  • Hayek, F.A. (1948), Individualism and Economic Order, The University of Chicago Press; 西山千明・矢島鈞次監修,嘉治元郎・嘉治佐代訳(2008)『個人主義と経済秩序〈Hayek全集〉』(春秋社)
  • Hayek, F.A. (1967), “Kinds of Rationalism”, in Studies in Philosophy, Politics and Economics, The University of Chicago Press, pp. 82-95; 嶋津格監訳,長谷川みゆき・中村隆文・丸祐一・野崎亜紀子・望月由紀・杉田秀一・向後裕美子・登尾章・田中愼訳(2010)「二つの合理主義」西山千明監修,嶋津格監訳『哲学論集〈Hayek全集〉』(春秋社)に所収
  • Hayek, F.A. (1976), Law, Legislation and Liberty: Volume 2 The Mirage of Social Justice, The University of Chicago Press; 西山千明・矢島鈞次監修,篠塚慎吾訳(2008)『法と立法と自由Ⅱ 社会主義の幻想〈Hayek全集〉』(春秋社)
  • Menger, C. (1871), Principles of Economics, Trans. by J. Dwingwall and B.F. Hoselitz, Ludwig von Mises Institute, 2006
  • グラットン, L. (2012), 『ワーク・シフト』, 池村千秋訳, プレジデント社
  • スミス, A. (2007), 『国富論:国の豊かさの本質と原因についての研究』上, 山岡洋一訳, 日本経済新聞出版社
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2014年5月12日アゴラに「他者の「言葉」を不快に感じるとき」のタイトルで掲載

私たちは社会生活を営むなかで、論理的な議論や書かれた資料などの果せる役割をすこし過大評価してきたのではないでしょうか。企業の現場での13年の経験や大学院での7-8年の社会科学の理論研究の経験などを通して、私は今そのように強く感じています。


本稿では、「知識とは暗黙的なものである」というマイケル・ポランニーの考えを見ていくことで、現在の社会生活の営み方をすこしずつ見直していくきっかけをつくりたいと考えています。簡単に言えば、言葉で行われる議論や書かれたものや画像や動画などはもっと有効な形で活用できるはずだし、また私たちの多くは実際に自分の身体を使って知ることにより重きを置くようになると思われます。また暗黙的知識の考え方を理解できれば、各自がより意味を見出せる作業の量が社会のなかに増えていき、「私たちは遊びも仕事ももっと楽しんで生活できるようになれるだろう」と考えています。


ポランニーによれば、人の赤ちゃんとチンパンジーの赤ちゃんの知性の比較実験が1930年代に行われたといいます。その比較から得られるメッセージは、「知識とは基本的に人間が言葉をもたない動物と共有しているものであり、人間が使用する言葉はその成長を手伝う1つの道具である」というものです。


人間が動物と共有するものを、ポランニーは「知性の無言の行為」とか「無言の能力」などと呼んでいます。それは脳の神経の痕跡を含む身体の内部プロセスと深く結びつくものです。脳のなかの痕跡は、思い出せる範囲を越えた過去の膨大な経験の連鎖のなかで形づくられますが、それと関係するある対象物を私たちが見るときには、その対象物を手がかりにして過去の膨大な量の経験の記録を追跡できるのだとポランニーはいいます。言い換えれば、私たちは今まさに注目している対象にたいして、自分の内側からなにか言葉にならないものを投影しているというのです。


例えば、特徴のない背景に対して置かれたボールが強制的に膨らまされるという状況を私たちが見るとき、多くの人はそのボールがあたかも自分の方に近づいて来たかのような錯覚を起こすと言われています。このとき私たちが投影している身体の内部プロセスについて、ポランニーは次のように説明しています。つまり、私たちは赤ちゃんのときにおもちゃのガラガラが近づいて来たり離れて行ったりするのを見て、それを交互に膨らんだり縮んだりしていると見るのか、あるいはその大きさを保ち続けながら距離を変えていると見るのか、そのいずれかを選ばなければならなくて後者を採用した。そして、その暗黙のルールを膨らまされたボールに対して投影することにより、ボールが近づいて来たという錯視が起こるのだというのです。


このようにポランニーの考えによれば、私たちの知覚には過去の経験のなかで脳に残された痕跡と結びつく一連の暗黙のルールの投影が含まれています。ここで、知るという行為における言葉の機能について考えたいと思います。ポランニーの考える言葉の機能としては、基本的に以下のものが挙げられます。

(1)経験を記号化・表現する

(2)動物のむき出しの記憶力を助ける(記録・保存・持ち運びできる)

(3)事実や感情やメッセージを他人に伝える

(4)適切な記号化と操作を通じて知性・思考の力を高める

(精密科学になるほど経験との接点が減少していくとポランニーは考えます。)


以上のように考えると、言葉で指し示されるものごとに関する私たちの知識も、やはり経験によって得られてきていることになります。つまり、動物がものごとを知っていくやり方と同じだということです。したがって、何らかの専門分野の言葉を学ぶことは、それだけではその主題を十分に理解することにはなりません。


この点をポランニーは、肺疾患のX線診断の講習に参加する医学生について考えることで説明しています。ポランニーによると、患者の胸部X線写真についての放射線科医の専門的な説明を横で聞く医学生は、事前に専門用語を学んでいたとしても当初はその話をほぼ理解できません。というのも、医学生はX線写真上に心臓・肋骨の影ともやのかかった斑点しか見ることができないからです。しかしその後も数週間、さまざまな症例のX線写真を注意深く見ながら説明に耳を傾け続けると、徐々に肋骨のことを忘れて肺が見えるようになり、暫定的な理解が得られ始めます。そして忍耐強くやり抜くことができれば、生理的変動、病的変化、瘢痕、慢性感染症、急性疾患の兆候などの詳細に関する新しい世界が漸く見えてくるというのです。


このように、言葉はそれが指し示している主題と一緒に理解される必要があり、また主題のものごとは自分自身の身体をもって理解されなければならないのだとすれば、一個人としての私たちは、自分を中心とする狭い範囲の出来事だけしか実際にはよく知ることができないということになります。また言葉ばかりに目を向けてしまうと、主題と言葉がばらばらになってしまう恐れがあるということにもなります。ポランニーによれば、私たちの知性はそのような場合に不快感を感じるのだというのです。


私はまだ35年半しか生きていませんが、「知るということ」に関してこれまでの経験を振り返り考えると、現時点ではポランニーの考え方が大きな説得力を持っているように思えます。また日常のさまざまな場面で、リアリティと言葉の関係がうまく合っていないことに起因する不快感の表出に直面することが多いように感じています。私たちがリアリティにより接近していくことを可能にしてくれる有効な道具として言葉を使用することができれば、私たちは社会生活のささいな営みの中にもより多くの意味を見出すことができ、小さな楽しみを増やしていくことができるのではないでしょうか。


一個人の知識の範囲の狭さを前提とする以上のような考え方は、他の人たちとの交換や協力がもたらしてくれるものの大きさを高く評価することにつながります。またそれらの恩恵を得るために私たちが守らなければならない社会生活のルールとしては、強制・暴力・詐欺・だますことの禁止や、論理で理解しにくい他人の行為の邪魔をすることの禁止、また仕事の面で競合となりうる人への妨害行為の禁止、などが必要になると考えられています。


以上、今回は人間を「迷路を走りながら学ぶネズミ」にたとえる知性の考え方を主に見てきました。次回は「市場経済がもたらす豊かさとそのためのルール(仮)」のようなテーマで書いてみたいと思います。


【参考文献】

  • Polanyi, M. (1962), Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy, The University of Chicago Press; 長尾史郎訳(1985)『個人的知識―脱批判哲学をめざして―』(ハーベスト社)
  • Polanyi, M. (1967), The Tacit Dimension, The University of Chicago Press; 高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)


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