今回は、ハイエクの議論に見られる「社会をゼロサムゲームに変えてしまう要因」と「それを乗り超えるための基礎となるもの」について書きたいと思います。

 

以前、「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」というリンダ・グラットンの議論に簡単にふれましたが、これに関連してハイエクは、人びとが一定の利益やポジションを奪い合うゼロサムゲームとは異なる社会が実現可能であると考えていたように思えます。


その社会を言い表すために彼が提案した「カタラクシー(catallaxy)」という言葉は、「交換すること」と「コミュニティに入るのを許すこと」と「敵から友人へと変えること」を意味したギリシャ語のkatallatteinに由来していました。


カタラクシーは、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかが見えてくる」という点では厳しい競争の側面をもちますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同プールが拡大していき、能力や技能や運に委ねられてその分配が決まる」という点ではゼロサムゲームと異なっています。それは、人びとが先ず社会の共同プールへの貢献に努め、その分配が運にも依存して増減することを承認し、多様な活動に関わるより多くの人の機会が改善されるような社会になるのかもしれません。


では、社会をゼロサムゲームに変えてしまうものとは何でしょうか。ハイエクがそう明言していたわけではないですが、彼の議論のなかにはその主な原因として、「集団的利己主義(group selfishness)」と「集団的利益を保護する政策」が指摘されていたと考えます。またゼロサムゲームからの脱却の基礎となるものとして、「法の前の平等」や「開かれた社会のルール」の概念を普及・徹底させることが主張されていたと思います。


以下ではそれらを順に見ていきます。また次回の「敵から友人へと変える社会に(仮題)」のなかで、ハイエクが目指したカタラクシーという社会についてもっと詳しく書きたいと考えています。


集団的利己主義、部族社会の感情の復活


ハイエクは、経済を働かなくさせる最大の脅威は「集団的利己主義」だと述べていました。明確な定義は与えられていませんが、自分の立場や集団の利益に奉仕するのであればよそ者には危害を加えたり排除したりしてもいいという組織的な思考のことであるといえます。


例えば、同種の仕事で社会に貢献したいと望む人びとを締め出すことで自分たちの地位や所得を守ろうとする労働組合や同業者の団体・組合による排他的慣行が挙げられます。ハイエクはそれらの顕著な特徴を以下のように示していました。

  • 組合員以外の部外者による分野への参入を妨害する
  • 不要不急の仕事を増やす
  • 供給される財やサービスを統制しようと努める
  • 組合・団体への加入に高いプレミアムを課す
  • 仲間に心理的・道徳的な圧力をかけ、不本意な支持を強要する


集団的利己主義によって犠牲にされるのは、明らかに直接締め出される生産者に限らず、多くの場合は本人たちもそのことに気付いてないような組織されない(できない)人びとであると考えられます。「消費者一般、納税者、女性、老人」などをハイエクは挙げていましたが、最近の日本に関していえば「若者」も含められるかもしれません。


ハイエクは、集団的利己主義は人間に深く根ざしている部族社会の感情であると考え、それを「私たちの中にいる飼いならされていない野蛮人」と呼びました。また、最近になって部族の組織的な思考の強力な復活が見られている一つの理由として、社会の成員に占める大規模組織で働く人の割合がますます増加していることを挙げました。


集団的利益を保護する政策


ハイエクはまた、経済の働きを妨げる別の要因として、政策が組織された集団の利益を保護する傾向をもつことを指摘していました。つまり、「無数の小さなそれゆえに無視されがちな効果よりも、少数の強力なそれゆえに目立ちやすい効果のほうに優先的な考慮を与えがちである」というのです。とくに、自分たちの現在のポジションや一度到達した所得水準が脅かされていると感じている人びとの集団にたいして特権が与えられやすいと指摘しています。


会社法、税制、金融政策などに関しても、集団的利益を優先する傾向をもつことが主張されています。筆者自身は法律や政策をよく知らないのですが、ハイエクの議論の一部は以下のように要約できます。


a) 会社法

  • 会社を擬人または法人として認めることは自然人のもつ多くの権利が会社にも拡張される効果をもったが、技術的な理由によって正当化される範囲を超えて大規模化を有利にしている
  • 個人の権利を組織されたグループにまで拡張する必要はなく、時には組織されたグループから個人を守ることが政府の義務でさえありうる


b) 税制

  • 被雇用者の自由の拡大、芸術・文化・スポーツの発展、自然の美しさや歴史的財宝の保存などのためには、少数のイニシアティブをもった個人やそれらを後援する独立の資力をもつ個人をもっと存在させることが重要であるが、累進課税は成功している人が財産を蓄積するのを難しくすることで、社会を固定化している
  • 累進課税が資本形成の局面に与える影響を考えると、既存法人企業の地位を強化して、新規参入者の立場を不利にする傾向がある


c) 金融政策

  • 貨幣価値の低下による実質賃金の引き下げの後には、組合による貨幣賃金の引き上げの要求が続き、その反復は累積的なインフレーションを生むかもしれないが、いつかやめなければならないと人びとは気づくことになる
  • 一時的な雇用の増加や政府の介入による賃金引き上げは、組合が政府の機構のなかに編入されるような側面をもち、既存の経済構造の歪みを硬直化させ、より大きな不平等と全体としての労働者の実質所得の切り下げという犠牲を払ってはじめて実現する(集団的利益からなる擬似政府の肥大化)
  • 政策の刺激的な効果が作用するのは、それが予想されなかったあいだだけである

(一方で、輸出や外国人観光客の増加による効果などの論点は、ハイエクの議論ではあまり明示的に扱われていないかもしれません)


法の前の平等、開かれた社会のルール


組織的利益を優先する政策が問題となる一つの理由は、それらが社会の成員全員には適用されないこと、特権や差別的な扱いにつながることにあると思われます。ハイエクは、ルールはすべての人に等しく適用されるべきであるという「法の前の平等」の考え方を繰り返し強調し、法の前の不平等は相対的に貧しい人たちの犠牲において裕福な人びとを利すると主張しました。


法の前の平等は「法の支配」と同義で使われる言葉であり、17世紀まではギリシャ語のisonomia(イソノミア)やそれを英語の形にしたisonomy(イソノミー)という言葉が使われていたようです。これらは、法を施行する人びとが先ず自らとその子孫を縛りつける用意のあるルールの施行のみに限定されなければならないという概念でもあると考えられます。


現代のような拡張された交換に基づく社会を可能にしてきたのは、法の前の平等と「いまを生きている人びとが気づいている以上に多くの経験が蓄積されてくるなかでの試行錯誤の過程の産物としてのルール」の規律である。これがハイエクの重要なメッセージの一つであったと考えます。ここでは後者を「開かれた社会のルール」(または「大きな社会のルール」)と呼びたいと思います。


ハイエクの議論の中から、筆者が「開かれた社会のルール」と考えるもののごく一部を以下に示します。

  • 社会の成員の誰かが価値のあると思われることを行う付加的能力を獲得した場合には特定の人びとにとっての競争者となることを認め、社会にとっての利益と捉える
  • 誰も統制できない事情によってやむをえない立場におかれているのが自分であると決定されたときには変化にしたがい、努力の方向を変える
  • 少数の既知の人びとの必要に応えるよりも何千人もの未知の人びとの必要に応えるほうがよい


このようなルールの発達は、一つの部族コミュニティの内部ではじまったのではなく、未開人がお返しを期待して自分の部族の境界線に贈物をおいていったときの最初の無言の物々交換にはじまったのだろうとハイエクは考えていました。


結論としては、集団的利己主義とそれを保護する政策の問題点は「人間の努力の方向を導く指針を機能不全に陥らせること」にあるのに対して、法の前の平等と開かれた社会のルールの目的は「恣意的な権力を防止し、すべての人に好ましい機会が訪れる可能性を増大させること」にあるといえます。また次回に見るように、後者は「各個人が日常生活で出会う具体的出来事を活用すること」に役立つと考えることができます。

(次回に続きます)


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行政サービスが市民への強制力を帯びやすい現行の政府の構造を改めようという前回の投稿の続きです。今回は市場経済の規律としての「他者にとっての価値の探求」について書きたいと思います。

 

私たちは分業と交換に基づく社会生活(=市場経済)に参加することで、各自がさまざまな財とサービスを自由に使えるようになる見込みと機会を高めています。ハイエクは市場経済の性質を深く分析し、私たちが心がけておくべきことをいくつか指摘していました。

 

第一に、能力ある成人はまず自分と扶養家族の生活に責任に負わなければならないことです。これは、自分たちの過失で友人や社会の他の成員になるべく負担をかけてはならないことを意味します。(もちろん自分の面倒を見ることのできない人びとには、誰もそれ以下には落ちなくなる保障が与えられることが前提です。)

 

第二に、個人や組織が見返りに得られると期待できる報酬が、財やサービスを受けとる側の人びとにとっての価値でなければならないことです。理由はハイエクがいうように、どちらかといえば「人間は生まれつき怠惰で不精、また先のことを考えないで浪費的である」ように思われるからです。

 

報酬がそのサービスから恩恵を受ける人びとにとっての価値であることの意義は、私たちが個人的な動機や関心からはじめたとしても、各自の身近な周囲の環境を他者の目的のために役立たせようと努力し、自分の能力を何かに貢献できるよう利用することに導かれることにあります。

 

逆にいえば、この条件が満たされている場合に限り、どんな仕事をなすべきかの決定を各自に許すことができるともいえます。

 

ハイエクは、経済活動における個人の適切な持ち場(例えば、その人は起業家か従業員かなど)が、仲間や同業者たちから評価されるその人の功績とは必ずしも結びつかないことを示唆していました。

 

つまり、長い時間と努力を費やして高い技術を獲得した人であっても、彼は自分だけでは「対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずる」ことができないかもしれません。その場合、「その能力から最大の便益を引きだせる人たちに自分の能力を知らせる」ことができなければなりません。

 

あるいは、人の能力を具体的サービスにうまく転ずる起業家的な能力をもちながらも、現在は従業員などの立場で仕事をしている人びともいるかもしれません。

 

自分の能力のための適切な場所を探し出す必要があるという基本的な事実がもっとよく理解されなければならない、とハイエクは主張していました。しかし今後みていくように、そのような努力が十分になされていない原因として、人為的な障害が存在することも指摘していました。

 

また他者にとっての価値といっても、当初は少数者の意見や嗜好にとどまらざるを得ない分野(とくに「文化」と呼ばれる非物質的な価値の分野)も重要であるとハイエクは考えていました。

(次回に続きます)

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中央経済社
2014-06-14






8章「 暗黙的知識の利用と企業におけるリーダーシップ」の執筆を担当しました。



1章「 ダイナミック・ケイパビリティの解明」の共訳を担当しました。
5章「 取引コスト論とケイパビリティ論」の執筆を担当しました。
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以前の投稿で、アダム・スミスとカール・メンガーという経済学者の議論を用いて、私たちが「分業と交換に基づく社会への参加」を前提に生活していることを書きました。今回は、1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクの議論を用いて、現代社会を発展させる方向性と可能性について書きたいと思います。それによって、最近よくいわれる構造改革というものの内容について考えることができればと思っています。


二種類の法(ルール)の識別、政府の二つの機能の区別


ハイエクは自由放任主義者だと言われることがありますが、それは誤解であると考えます。彼はむしろ社会生活のルールとしての「法」が厳格に施行されることを求めており、正しい行為のルールに反している行為が数多くなされている現状を改めなければならないと考えていたように思えます。


ハイエクがいう「ルール」とは、広い意味では私たち個人の行為を無意識に導いているものすべてを指しますが、とくに注目されるのは集団全体の秩序の形成につながるものです。それは動物社会にも見ることができ、例えばハイイロガンの矢形の編隊、バッファローの防衛的な輪、複数の雌ライオンが獲物を雄の方に狩りたてるやり方などの集団的な行動のパターンのなかで、それぞれの場合に一定の秩序が存在することと、各個体を導く行為のルールが存在することを想像すると理解しやすいかもしれません。


人間社会では、集団秩序を形成する行為のルールはまず無意識的な習慣から発展し、知性の成長とともに、後からルールを漸進的に明文化する努力が行なわれるものと考えられます。


多くの人に認められた行為のルールの遵守を確保するためには、社会の一部の成員(政府)にたいしてそれらのルールを施行する(enforce)仕事を委任することが有効であると思われます。また、この「施行されるルール」を「法」と考えることができます。


ハイエクによれば、法はほとんどの場合「正しくない行為を禁止する」という意味で消極的なルールであるといいます。禁止される主な行為としては、他人への強制(coercion)、暴力(violence)、詐欺(fraud)、欺瞞(deception)が挙げられます。強制は、ある人の行動が他者の目的のために他者の意思に奉仕させられることです。暴力は、物理的な強要であり強制のもっとも重大な形態です。詐欺と欺瞞は、人があてにしている事実情報を巧みにごまかすことにより詐欺師が人にしてもらいたいことをさせることです。これらが不正なのは、「まさに考える人、評価する人としての個人をこのように排除し、他人の目的の達成における単なる道具にしてしまうから」であるといえます。


法が「消極的なルール」であることの重要な点は、「どんな特定の行動をとるべきかに関する意思決定の源泉が、法を発する人から行動する人へと移動する」ことにあります。つまり、細かいことはその環境に応じて各自に任せられる、ということです。


ハイエクによれば、社会における強制を最小にする目的のために、不正な行為を防止することに限定して強制力をもちいる権限が政府に委ねられるという制度が発展してきたといいます。より正確にいえば、政府の強制力をもちいる活動は、正しい行為のルールの施行、防衛、その活動の資金調達のための租税徴収に限定されるべきという基本原理が考えられてきたというのです。


正しい行為のルールは、政府の人びとを含む万人に等しく施行されるものでなければなりません。この普遍的なルールのことを、「法律家の法(the lawyer’s law)」または古代ギリシャ人の「ノモス(nomos)」とハイエクは呼びました。実際には、民法や商法や刑法などの私法がこれにあたるものと考えられます。


以上の正しい行為のルールの施行を、「強制装置」としての政府の第一の機能とみなすことができます。


政府の仕事としては、これとは別にもう一つ重要なものが考えられます。それは、主に代価を支払う人びとに受益者を限定できないという理由から、民間の個人や企業がうまくつくりだせないサービスの提供です。保健や衛生サービス、文化施設や公園の運営・管理、道路の建設・維持、個人や企業などの努力を助ける各種統計情報の提供、社会保障の提供、教育と研究などが、その一部の例として挙げられます。つまり、行政サービスの提供です。


政府の行政機関の制御・規制や指揮・監督を行うことは、私たちが立法府と呼ぶ代議員議会の主要な任務とされてきました。行政の特定の機関や役人がなすように求められていることについての指示で構成される法律が、この目的のために必要とされると考えられます。それは主に官僚の手によって計画されるものが立法府によって承認される手続きを踏むもので、行政機関への指示だけでなく、その取引関係にある市民のための規制も叙述するものになると思われます。


この行政の制御・管理・規制のためのルールのことを、「政府(行政)という組織のルール」または(ギリシャ語で)「テシス(thesis)」とハイエクは呼びました。これは正しい行為のルールとは違い、「これこれがなされるべきである」といった積極的な指示の性格をもちます。今日、立法府によって制定される法律の多くはこの行政組織のためのルールであると考えられます。


こうしたルールが必要とされる一つの理由としては、行政組織は市民へのサービス機関でありながら、次回でみる市場経済の規律(民間のビジネスや商売では利潤によって示される効率性の検証)を欠いていることが挙げられます。


以上の行政サービスの提供を、「サービス機関」としての政府の第二の機能とみなすことができます。


「強制」と「サービス」の結合、「交渉」民主主義


今日の立法府は、正しい行為のルールの制定と行政組織のルールの制定の両方を任されています。ハイエクは、この点を既存の民主主義政府の構造の欠陥として指摘していました。


その結果起こる事態として、ハイエクは以下のことを挙げています。

  • 正しい行為のルール(消極的)と行政組織のルール(積極的)が混同される
  • 普遍的な正しい行為のルールの施行にたいしてのみ与えられるべき強制力をもちいる権限が、行政の組織や運営にも与えられる
  • 立法権力と行政権力が結びつく
  • 政府機関が一般的な正しい行為のルールの適用から除外される
  • 民間の個人と組織の行動が行政機関による特別な命令や許可に従属させられる
  • 政府は目標や計画を実行するには多数派にとどまることが必要になり、その目標や計画とは必ずしも関係のない種々の利益集団に特別な便益を与えて票の獲得を目指す
  • 政策が主に特定の利益集団との一連の取引によって決定される


つまり、民主主義の理想は本来恣意的な権力を防止することを意図していたのに、「代議員議会が二つのまったく異なる任務を負わされてきた」結果、新しい権力の源泉になっている。しかしそれは構造の問題であり、政治家や行政の人たちが与えられてきた地位においてなすべきことをしたからといって、それを非難する権利は私たちにないというのです。


立法院の設置の提案


社会の成員すべてが従わなくてはならない正しい行為のルールの発見や定式化や承認といった任務に求められる能力は、行政にかかわる業務に求められる能力と必ずしも同じではないと思われます。ハイエクは、前者の能力を認められて選出される人びとからなる立法院(Legislative Assembly)を設置し、現在の手続きで可決される行政のための法律や規制に立法院の承認を求めることを提案しました。その任務に適した人たちの特徴として、ハイエクは以下のようなことを考えていたようです。

  • 普段の生活のなかで尊敬と権威を集めてきた人
  • 経験豊かで、賢明で、公正であると信頼されている人
  • 各世代の同世代から尊敬を集めている人
  • 行政の行動を含むすべての行動の法的枠組みを改善するという長期的な問題にすべての時間をささげることのできる人
  • 立法者としての仕事を学ぶ十分な時間があり、官僚を前にしても無力ではない人


ハイエクが立法院と呼ぶものを設置することの実現可能性についてはまだわかりませんが、私法を制定する権限をなんらかのかたちで既存の代議員議会から切り離し、政府の強制装置としての業務とサービス機関としての業務を分割することが経済構造改革の前提になるというアイデアは、興味深くかつ検討に値するものであるように思われます。

(次回に続きます)


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2014年9月15日アゴラに「人生を豊かにするネットの新活用法」のタイトルで掲載

東浩紀さんの『弱いつながり』を読みました。安定した今の生活にも満足しているけど、人生をもっと豊かにできたら。そう考えている人の背中を優しく押してくれる本だと思います。人生をより充実させるために、著者はネットの使い方を少し変えてみようと提案しています。つまり、Facebookなどを既に関係の深い知り合いとの「強い絆をどんどん強くする」ためだけに使うのではなく、まだ関係の浅い知り合いや思いがけない出会いとの「弱い絆がランダムに発生する場に生まれ変わらせる」。そしてそれらの弱い絆のところへ、たまにはリアルであちこち「観光」しに行こうというのです。

 

著者の提案の背景には、「人間は環境の産物だ」という考え方があります。いつも同じルーティンを繰り返している人は「脳の回路」が固定されてしまい、特定の状況にたいする反応の仕方がほぼ決まっている。ここで著者は、私たちの生活に「自分の世界を拡げるノイズ」を定期的に忍び込ませることの必要性を説きます。たまにいつもと違う環境に身を置き、自分と弱くつながっているものに触れることで、「考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭け」てみる。というのも、それが自分の「人生をかけがえのないもの」にし、かつ、現在の「強い絆をより強く」もしてくれると考えられるからです。

 

「観光なんてものごとの表層を撫でるだけだ」という否定的な意見にたいしては、著者はまず、観光に「過剰な期待をせず……クールに付き合うこと」を提案します。それと同時に、「表層を撫でるだけだろうとなんだろうと、どこかに「行く」というのは、それだけで決定的な経験を与えてくれることがある」と述べます。その根拠となるものは、「記号にならないものがこの世に存在する事実」です。

 

例えば、著者は学生のころにアウシュヴィッツを訪れて、言葉にならない「強烈ものを受け取った」といいます。これを読んで私は、東日本大震災で従姉妹を亡くした友人と一緒に南三陸町を訪れたときの強い印象や、メールだけのやりとりをしていた相手と実際に会ったときのギャップ、またYouTubeではあまり良いと思わなかったライブや舞台を実際に観に行ったときの衝撃などを思い出しました。「言葉の解釈は現前たる「モノ」には及ばない」と、私も最近そう感じます。

 

言葉にならないものが確かにあるこの世界と、言葉や記号だけでできたネット。ネットの強さを今後活かしていくための提案として、本書には主に以下の3点が書かれていると考えます。

1.        ネットの不完全さをひとりひとりが自覚すること

2.        ネットで言葉にならないものを言葉にする努力をすること

3.        ネットで弱いつながりの発生を促し、たまにリアルで訪問(観光)すること

 

第1点は、著者の次の言葉に要約されます。「記号を扱いつつも、記号にならないものがこの世界にあることへの畏れを忘れるな」。加えて、多くの人は「みな自分が書きたいと思うものしかネットに書かない」事実も忘れてはならないと著者はいいます。これは、ネットだけでものごとを結論してはいけないという慎重かつ謙虚な態度が不可欠であり、このルールをすべてのネット利用者が共有すべきで、また常に記号にならないものへの想像力が必要である、ということだと思います。

 

第2点は、ネットで「言葉にならないものを言葉にしようと努力すること」が大切で、また「言葉の世界をうまく回すためにはモノが必要だ」ということ。これは、ネットはリアルで伝えられるものを複製はできないが、ひとりひとりが努力することでそれに近づくことはできる、ということかもしれません。ここで言われる「言葉にならないもの」とは、おそらくひとがモノに触れたときに抱く「動物的な感情」のことです。著者がそれを重要視するのは、ひととひとは動物的な感情を共有すること(=「憐れみを感じる」こと)ではじめてわかりあえる(かもしれない)からだと思います。

 

ネットで動物的な感情を言葉に入れる方法は、まずモノや体験が大事であることの他はまだ私にはわかっていませんが、例えば伝えたい感情を抱いたときの具体的な状況を思い浮かべながら言葉をつむいだり、そのときの状況に関する記述を少し加えたりすることではないか、と考えます。現前たるモノや動物的な感情に「希望を託す」という点は、著者の韓国旅行の体験との関連で説明されていますが、「国民と国民は言葉を介してすれちがうことしかできないけれど、個人と個人は「憐れみ」で弱く繋がることができる」という一文が印象的でした。

 

第3点は、ネットを「弱い絆がランダムに発生する場に生まれ変わらせ」ようという提案です。その重要なポイントとして、「ウチとソト」を分け過ぎないことが強調されていると思いました。もちろん、ネットでは注意が必要で、見知らぬ人ともどんどんつながりましょうということではないですが、一度は会ったことがある、非常に親しい共通の友人があいだにいる、仕事や関心など多くの共通点がある、あるいはこれが一番大事かもしれませんが、上の第1と第2の条件を相手が満たしていると思える、といった人たちに対しては、ネットで弱いつながりを「あちこちに張り巡らすことで」面白くなるかもしれません。

 

さらにその弱いつながりを活かして、リアルでも「複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いてい」こうということだと解釈しました。また、実際に「観光」に行っているあいだは、ネットにおける強いつながりは「切断すべき」だというアドバイスもありました。というのも、「旅で肝心なのは、日常とは異なる環境に自分の身を置き、ふだんの自分では思いもつかないことをやってしまうこと」だからです。「人間関係を(必要以上に)大切にするな」という点は、異論もありそうですが、もし個人の世界を拡げたいのであれば重要だと思います。

 

著者が言う「弱いつながり」は、“自分と弱くかかわっている新しい経験全般”として解釈すれば、私生活と仕事の両方に幅広く応用できるアイデアだと思います。例えば、家族や友人の趣味を体験すること、知人の好きな場所に足を運ぶこと、自分と関心を共有していると思われる人の集まりに参加すること、またそうした人と一緒に仕事をすること、等々です。忙しい人が多いとは思いますが、身近なところから、少しずつ、焦らず気長に、試してみてはいかがでしょうか。忙しく消耗する状態から離れ、「ゆるやかに流れる時間のなかに身を置くために」こそ、日常に「弱いリアルを導入」することが必要であり、「新しいモノに出会い」、自分の持ち合わせの「言葉の環境をたえず更新」していけば、また「ネットの強みを活か」せるようになるかもしれません。

 

本書には他にも、「コピーになることを怖れてはなりません」、「偶然に身をゆだねる。そのことで情報の固定化を乗り越える」、「成功とか失敗とか考えない」、「人生はいちどきり……偶然の連鎖を肯定し、悔いなく生きよう」など、ここで紹介しきれない素敵な言葉やメッセージがたくさん散りばめられています。ぜひ多くの人に本書を読んでもらい、それぞれの解釈で著者の言葉やメッセージを楽しんで欲しいと思います。そして、ネットで弱いつながりをうまく張り巡らせながら、リアルでそれらに触れに行き、また強いつながりをさらに豊かにしてもらえるとうれしいです。

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2014年7月1日アゴラに「社会人になるとき知っておきたい「分業」のこと」のタイトルで掲載

本稿と次稿では、アダム・スミス、カール・メンガー、フリードリヒ・ハイエクという3人の経済学者の議論を用いて、将来の働き方を考えるための基礎となりうる「分業」の概念を提示していきたいと思います。


「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」という意見が聞かれるようになっています。例えば、『ワーク・シフト』の著者リンダ・グラットンは、月曜から金曜の朝9時から夕方6時以降まで働いて週末に休むという従来の生活から、家族や同僚などが普段から協力してバランスと意義と経験を重んじる働き方・生き方へと次第に移行していくことを予想しています。


従来の働き方の主な問題点としては、所得を得る目的であっても仕事に追われると自分をすり減らしてしまうこと、主な余暇時間の過ごし方が受動的にテレビを視聴することに限定されること、などが挙げられています。これに対し働き方の未来像としては、男性が育児に参加するなど職業生活のなかに私生活の要素を持ち込むこと、女性が企業などで要職に就くこと、スポーツや文化活動や市民活動により多くの時間をあてること、頻繁に友人と会いリフレッシュすること、などが描かれています。


現在の働き方や余暇の過ごし方に多くの人が満足できているのであれば、問題はないようにも思われます。しかし、仮にグラットンが描くような働き方の未来に魅力を感じる部分もあるとか、可能なら子供たちには将来そうした働き方をして欲しいと考えるのであれば、私たちは何を変えていく必要があるでしょうか。


社会科学には、「あるグループの社会的な行動のパターンを効果的に改善する唯一の方法はその個々のメンバーを導いている思考様式(無自覚に従っているルール)を改善することである」という理論があります。また、その思考様式は育てられる文化的環境や特に教えられる言葉を通じて伝えられるものであり、そうやって伝えられたものの見方の中で私たちは無自覚に行動しているので、それを変えることは必然的に時間のかかる課題になると考えられています。


例えば、勤務時間を長引かせる要因としては、上司より先に帰宅すべきではないとか、顧客に言われたことには多少の無理をしてでも応えるべきだといった思考様式が考えられます。しかし社会科学の分業の観点から見れば、「上司」や「顧客」と呼ばれている立場の多くは、同じ最終消費財を生み出す過程で互いに補完的な仕事をする協力者でもあります。その知識や能力や実績に敬意を払うのは当然であるとしても、その立場自体を権威づける必要はないのかもしれません。


また、仕事上の競合相手とはゼロサムゲーム(相手の利益が増えればその分だけ自分の損失が増える勝負)の関係にあるというのが一般的な考えだと思われます。しかし、次稿で見ていくハイエクの見方はそれを否定します。経済活動の競争は、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかがはじめて見えてくる」という点ではスポーツや試験に似ていますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同出資分が拡大していき、技能と運に委ねられてその分配が決まる」という点でゼロサムゲームではないというのです。私たちは「競合企業の商品は絶対に買わない」ということまでしなくてもよいのかもしれません。


上述の3人の経済学者の議論を現在の私たちの経験の中で捉え直すと、いまより少し緊張を緩めた社会生活を送れる可能性が見えてくるように思われます。特に、「ある時間その場所における具体的な状況に関する知識が社会の経済活動にとって重要である」というハイエクの洞察は、グラットンの要求する高度な専門技能・知識の習得を必ずしも行わなくても、社会的に意味のある仕事を増やせる可能性を指摘していると考えます。以下、アダム・スミスの議論からはじめて、今回はカール・メンガーの議論まで見たいと思います。


アダム・スミスは、私たちの多くが「分業と交換に基づく社会への参加」を前提に生活している理由として、それが「自給自足」よりも社会全体の労働の生産性を飛躍的に向上させうることを指摘しました。つまり、分業と交換により個々人の技能や技術の水準が向上し、かつ生活を豊かにする労働を行う人の比率が高い場合には、働いていない人や低所得者でも、途上国では考えられないほどの財やサービスを消費できるようになるというのです。


アダム・スミスはまた、1つの最終製品だけを見ても、原材料の生産や製品を作るための機械の製造など、その工程がさまざまな仕事に分かれていることに注目しました。カール・メンガーはこの点にさらなる光を当てるために、「財の次数」という概念を提示しています。ここでの財とは、「人間の必要を満たすことの因果のつながりの中に置けるもの」として定義されますが、そのなかには人間の必要を満たすことに直接使われる「消費財」または「1次財」と、人間の必要を直接満たしはしないが1次財の生産過程のどこかで使用される「生産手段」または「2次財、3次財、4次財、…」との区別が見られるとされています。


例えば、パンをそれ以上手を加えずに食べる場合にはパンを1次財とみなすことができますが、その生産のために使われる2次財、2次財の生産のために使われる3次財、3次財の生産のために使われる4次財までについて、メンガーは例を以下のように挙げています。

1次財: パン

2次財: 小麦粉、燃料、塩、パン作りの器具・機械、器具・機械を使う技能、等

3次財: 製粉機、小麦、ライ麦、小麦粉作りの労働サービス、等

4次財: 穀物を育てる畑、耕作用具・機械、農業者の労働サービス、等


この財の次数という概念の提示により、採集狩猟経済(または小さな部族社会)の分業と発展した交換経済の分業との違いが次のように示されました。つまり、前者では自然が与えてくれる低次の財(通常はおそらく1次財と2次財)を獲得することにその活動を限定するのに対し、後者ではより高次の財の創造・利用へと人びとの活動を徐々に拡張させ、そのうえでそれらを最終的な1次財の生産と人間の必要を満たすことに間接的に向かわせるというのです。


メンガーは「架空の財」の存在にも注意を促しました。分業が進んだ社会では、一部の人間がそう考えているだけで実際には人の必要を満たす力がそのものに備わっていなかったり、現実には人の必要を満たすことにつながらない労働が行われたりする場合があります。また、以前は人の必要を満たすことのできていたものが、できなくなることもあります。人間がより高度な文明を実現するにつれて、架空の財やサービスの数は徐々に減っていくことになる、とメンガーは予想しました。


以上のポイントを要約します。(上で省略した部分を補足しています。)

1. 社会の働き方を変えるには、文化的環境のなかで身に付けられた思考様式を変えていく必要がある

2. バランスと意義と経験を重視する社会生活が望まれるのであれば、経済学の「分業」の概念をあらためて理解することが重要である

3. 分業と交換に基づく社会では、人はあるグループの人びとに対して彼・彼女らの必要を満たすための労働サービスを行う一方、自分自身は別のグループの人びとから労働サービスを受けることで自らの必要を満たしている

4. 「分業と交換に基づく社会への参加」がなければ、人は「自給自足」を行わなければならなかった

5. 働く人の多くは他者の必要を満たすことに間接的に参加しており、実際に会ったことのない人たちとも協力しながら、実際に会ったことのない人びとに貢献している

6. さまざま理由から、自分の労働が他の人たちの必要を実際には満たしていなかったり、満たせなくなったりすることがある


分業と交換に基づくこの大きな社会では、人びとの一部の期待はどうしても裏切られることになります。つまり、社会生活にはある程度の失望や失敗はつきものです。ハイエクはこの事実を受け入れる必要性を説いたうえで、それが個人にあまり大きな負担にならず、かつより多くの参加者の必要や期待が満たされていく社会を目指していたと考えられます。次回はこの点を書きたいと思います。


【参考文献】

  • Hayek, F.A. (1948), Individualism and Economic Order, The University of Chicago Press; 西山千明・矢島鈞次監修,嘉治元郎・嘉治佐代訳(2008)『個人主義と経済秩序〈Hayek全集〉』(春秋社)
  • Hayek, F.A. (1967), “Kinds of Rationalism”, in Studies in Philosophy, Politics and Economics, The University of Chicago Press, pp. 82-95; 嶋津格監訳,長谷川みゆき・中村隆文・丸祐一・野崎亜紀子・望月由紀・杉田秀一・向後裕美子・登尾章・田中愼訳(2010)「二つの合理主義」西山千明監修,嶋津格監訳『哲学論集〈Hayek全集〉』(春秋社)に所収
  • Hayek, F.A. (1976), Law, Legislation and Liberty: Volume 2 The Mirage of Social Justice, The University of Chicago Press; 西山千明・矢島鈞次監修,篠塚慎吾訳(2008)『法と立法と自由Ⅱ 社会主義の幻想〈Hayek全集〉』(春秋社)
  • Menger, C. (1871), Principles of Economics, Trans. by J. Dwingwall and B.F. Hoselitz, Ludwig von Mises Institute, 2006
  • グラットン, L. (2012), 『ワーク・シフト』, 池村千秋訳, プレジデント社
  • スミス, A. (2007), 『国富論:国の豊かさの本質と原因についての研究』上, 山岡洋一訳, 日本経済新聞出版社
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2014年5月12日アゴラに「他者の「言葉」を不快に感じるとき」のタイトルで掲載

私たちは社会生活を営むなかで、論理的な議論や書かれた資料などの果せる役割をすこし過大評価してきたのではないでしょうか。企業の現場での13年の経験や大学院での7-8年の社会科学の理論研究の経験などを通して、私は今そのように強く感じています。


本稿では、「知識とは暗黙的なものである」というマイケル・ポランニーの考えを見ていくことで、現在の社会生活の営み方をすこしずつ見直していくきっかけをつくりたいと考えています。簡単に言えば、言葉で行われる議論や書かれたものや画像や動画などはもっと有効な形で活用できるはずだし、また私たちの多くは実際に自分の身体を使って知ることにより重きを置くようになると思われます。また暗黙的知識の考え方を理解できれば、各自がより意味を見出せる作業の量が社会のなかに増えていき、「私たちは遊びも仕事ももっと楽しんで生活できるようになれるだろう」と考えています。


ポランニーによれば、人の赤ちゃんとチンパンジーの赤ちゃんの知性の比較実験が1930年代に行われたといいます。その比較から得られるメッセージは、「知識とは基本的に人間が言葉をもたない動物と共有しているものであり、人間が使用する言葉はその成長を手伝う1つの道具である」というものです。


人間が動物と共有するものを、ポランニーは「知性の無言の行為」とか「無言の能力」などと呼んでいます。それは脳の神経の痕跡を含む身体の内部プロセスと深く結びつくものです。脳のなかの痕跡は、思い出せる範囲を越えた過去の膨大な経験の連鎖のなかで形づくられますが、それと関係するある対象物を私たちが見るときには、その対象物を手がかりにして過去の膨大な量の経験の記録を追跡できるのだとポランニーはいいます。言い換えれば、私たちは今まさに注目している対象にたいして、自分の内側からなにか言葉にならないものを投影しているというのです。


例えば、特徴のない背景に対して置かれたボールが強制的に膨らまされるという状況を私たちが見るとき、多くの人はそのボールがあたかも自分の方に近づいて来たかのような錯覚を起こすと言われています。このとき私たちが投影している身体の内部プロセスについて、ポランニーは次のように説明しています。つまり、私たちは赤ちゃんのときにおもちゃのガラガラが近づいて来たり離れて行ったりするのを見て、それを交互に膨らんだり縮んだりしていると見るのか、あるいはその大きさを保ち続けながら距離を変えていると見るのか、そのいずれかを選ばなければならなくて後者を採用した。そして、その暗黙のルールを膨らまされたボールに対して投影することにより、ボールが近づいて来たという錯視が起こるのだというのです。


このようにポランニーの考えによれば、私たちの知覚には過去の経験のなかで脳に残された痕跡と結びつく一連の暗黙のルールの投影が含まれています。ここで、知るという行為における言葉の機能について考えたいと思います。ポランニーの考える言葉の機能としては、基本的に以下のものが挙げられます。

(1)経験を記号化・表現する

(2)動物のむき出しの記憶力を助ける(記録・保存・持ち運びできる)

(3)事実や感情やメッセージを他人に伝える

(4)適切な記号化と操作を通じて知性・思考の力を高める

(精密科学になるほど経験との接点が減少していくとポランニーは考えます。)


以上のように考えると、言葉で指し示されるものごとに関する私たちの知識も、やはり経験によって得られてきていることになります。つまり、動物がものごとを知っていくやり方と同じだということです。したがって、何らかの専門分野の言葉を学ぶことは、それだけではその主題を十分に理解することにはなりません。


この点をポランニーは、肺疾患のX線診断の講習に参加する医学生について考えることで説明しています。ポランニーによると、患者の胸部X線写真についての放射線科医の専門的な説明を横で聞く医学生は、事前に専門用語を学んでいたとしても当初はその話をほぼ理解できません。というのも、医学生はX線写真上に心臓・肋骨の影ともやのかかった斑点しか見ることができないからです。しかしその後も数週間、さまざまな症例のX線写真を注意深く見ながら説明に耳を傾け続けると、徐々に肋骨のことを忘れて肺が見えるようになり、暫定的な理解が得られ始めます。そして忍耐強くやり抜くことができれば、生理的変動、病的変化、瘢痕、慢性感染症、急性疾患の兆候などの詳細に関する新しい世界が漸く見えてくるというのです。


このように、言葉はそれが指し示している主題と一緒に理解される必要があり、また主題のものごとは自分自身の身体をもって理解されなければならないのだとすれば、一個人としての私たちは、自分を中心とする狭い範囲の出来事だけしか実際にはよく知ることができないということになります。また言葉ばかりに目を向けてしまうと、主題と言葉がばらばらになってしまう恐れがあるということにもなります。ポランニーによれば、私たちの知性はそのような場合に不快感を感じるのだというのです。


私はまだ35年半しか生きていませんが、「知るということ」に関してこれまでの経験を振り返り考えると、現時点ではポランニーの考え方が大きな説得力を持っているように思えます。また日常のさまざまな場面で、リアリティと言葉の関係がうまく合っていないことに起因する不快感の表出に直面することが多いように感じています。私たちがリアリティにより接近していくことを可能にしてくれる有効な道具として言葉を使用することができれば、私たちは社会生活のささいな営みの中にもより多くの意味を見出すことができ、小さな楽しみを増やしていくことができるのではないでしょうか。


一個人の知識の範囲の狭さを前提とする以上のような考え方は、他の人たちとの交換や協力がもたらしてくれるものの大きさを高く評価することにつながります。またそれらの恩恵を得るために私たちが守らなければならない社会生活のルールとしては、強制・暴力・詐欺・だますことの禁止や、論理で理解しにくい他人の行為の邪魔をすることの禁止、また仕事の面で競合となりうる人への妨害行為の禁止、などが必要になると考えられています。


以上、今回は人間を「迷路を走りながら学ぶネズミ」にたとえる知性の考え方を主に見てきました。次回は「市場経済がもたらす豊かさとそのためのルール(仮)」のようなテーマで書いてみたいと思います。


【参考文献】

  • Polanyi, M. (1962), Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy, The University of Chicago Press; 長尾史郎訳(1985)『個人的知識―脱批判哲学をめざして―』(ハーベスト社)
  • Polanyi, M. (1967), The Tacit Dimension, The University of Chicago Press; 高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)


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