教育について(ナシーム・ニコラス・タレブの4月26日のツイートのおおざっぱな和訳)

1) 昔から、次のふたつが区別されてきた。
+食べるために働くことをしなかった、自由な人(リベラルな人)のための、“リベラルな教育”
+働く人たちのための、“実業的な教育”

2) たとえば、“リベラルな教育”のために教えられる数学は、理論的な頭を鍛える訓練だった。ユークリッドの定理は建築では使われなかった。
一方、建設業者は彼ら独自の経験則や、より豊かな幾何学を使っていた。

3) アングロサクソンの世界では、貴族階級のねたみによってそのふたつが一緒にされた。
+教養のある人になるための教育(文学、哲学、詩、抽象数学、歴史、切手収集など)
+物事を行うことを学ぶための教育(工学、薬学、会計学、法学、ベリーダンス、配管工事など)

4) だから私たちは“教養を身につけるために学ぶこと”と“物事を行うために学ぶこと”を区別して、別々の教育機関で教える必要がある。
両方を兼ね備えていると私が考える唯一のものは数学だが、これも説得力のある主張というわけでもない。応用数学はまったく違うものだから。

5a) 同業者による相互評価の問題点は、研究対象についての理論だけで教授を選び、研究対象についての基本的な知識をいっさいチェックしないことだ。これはレバント地方の“ポストコロニアルジェンダー理論”にくわしい人によくあることで、理論を教えても、実際にあった事実はけっして教えない。

5b) フランスの人たちは教育者に対する資格試験(アグレガシオン)を行うことでこの問題を解決した。あなたのための教育者が同業者だけで評価された人しかいないという事態にはならない。
(おなじ問題:“経済学を知る”ということは、経済学者たちによる理論を知ることと解釈されるのであって、経済に関わる事実を知ることではない。)

6) 教育モデルはすでに崩壊している。人が大学で学ぶ唯一のことのように思われるのは、物事を創造できるほど優秀ではないから大学教授になり、団結して引用組織の中でたわごとをいう、敗者のイデオロギーだけだから。
(経済学だけではなくて、どこでもそうだ)

7) ついに私たちは教育をふたつに分けられる。
+自分の発言や行動に責任を負わない人たちによる教育
+自分の発言や行動に責任を負う人たちによる教育
これらを別々の教育機関に分けられる。

8) リベラルな教育によって自由な考え方ができる人がつくられるという意見は、ほとんど最大の作り話だ:経験的には、教育によって、“考えられる人”と“自由な”の正反対の人間がつくられている:洗脳された奴隷だ。

9) この“リベラルな教育”のための“大学”制度は、歴史的にみて、教会と密接に結びついて指導されていたことを思い出してほしい。
テクニカルな教育は、自由な考え方ができる人たちに委ねられていた。

10) 反脆弱性のなかで私はこの混乱状態について書いている。
まずビジネスがあって、次にテクノロジーが来て、そのあとに科学が続く。
この順番の方が、その逆よりも、はるかに頻度が高いのだ。
問題は、学者たちが本を書くこと、実際に物事を行なっている人たちは本を書かないことだ。