『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【学校教育と継続教育】

仕事が経験によるものであった時代には、仕事と学校は別世界にあってよかった。仕事は学校を終えた後のことだった。

知識にせよコンセプトにせよ知っておくべきことは、仕事に入る前に学校で詰め込まなければならなかった…結果は学校教育のいっそうの延長であり、若者をさらに長く学校にとどめておくことだった。

しかし仕事に知識を適用する時代にあっては、継続教育すなわち経験と実績のある成人を何度も学校に帰らせることが必要になる。そしてそのとき、将来必要となるものをすべて学ばせるという今日の学校の意図が意味をなさなくなる。

そもそも一〇年後一五年後にいかなる知識が必要になるかがわからない。

知識とは、その本質からして革新し、追求し、疑問を呈し、変化をもたらすものだ

知識をもつほど、自らの無知を自覚し、新しい能力の必要を認識し、自らの知識を深化させなければならないことを知る。

今日この継続教育が教育の世界では最も成長しつつある。

継続教育の発展が意味するものの一つは、科目のそれぞれに学ぶに適した時期があるとの認識である。

もし実社会において経験を積んだ後のほうが効果的に学ぶことができるのであれば、やがて学校に戻ってくるまで勉強を延ばしておくべきである。

事実、経験を積んだ後のほうが勉強できる科目は多い。

その他あらゆる学問に、経験のない若者では学びとることのできない科目、あるいは初心者には不要な科目というものがある。

哲学や歴史など最も一般的な教養科目もまた、経験のある成人の教育としてこそ意味がある。

むしろ専門科目こそ若者が勉強しやすくかつ必要とするものである。ただしここにいう専門科目とは、生物学や近代史ではない。それは、後述するように、意味ある知識としての環境制御や極東研究などの応用科目である。