『断絶の時代』ピーター・ドラッカー1969年 The Age of Discontinuity 14章 教育革命の必然

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(画像はWikipediaより)

【学歴偏重の害】

学校教育の延長がもたらした最悪のものは、学位の有無によって人を差別するという学歴の壁である。それは、史上初めてのこととしてアメリカ社会を二分するおそれがある。

今日アメリカは、よい仕事の機会を人口の半分以下の者、すなわち大学へ進学した者、特に大学を卒業した者に限定するという愚を犯している。

今日すでに普通の仕事さえ高卒以上に限定している。いわんや中学を出られなかった十五%から二〇%という膨大な数の人たちに対しては、知識社会における市民権を拒否するにいたっている。

これは史上初めてというにとどまらない。おそろしく愚かである。これまでアメリカ社会の強みは能力、覇気、献身に富む者の活躍にあった。

もちろん完全に実現していたわけではない。特に女性についてはそうなっていなかった。黒人については、考慮さえしてこなかった。しかし今日のように、あからさまに、よい仕事は特定の者たちに限るなどということはしたことがなかった。

学歴の高くない者には機会さえ与えないということは、能力と行動力をもつ無数の人たちに対し、成果をあげ社会に貢献するための道を閉ざすことを意味する。

卒業証書は長期間学校に通ったこと以外のことは何も意味しない。卒業証書をもって能力や将来性を判断できるほどには、人間の成長過程は一律ではない。

不当に誤って評価された者を失ってよいほどの余裕は今日の社会にはないはずである。しかも実際には、そのような若者の割合はずっと多い。

卒業証書を手にした者にだけ機会を与えることは、これまでその正しさが十二分に証明されてきたアメリカ社会の基本的な信条の愚かな否定である。

階級制度など一度も存在したことのなかったアメリカにおいて、実際の仕事ぶりではなく学歴をもって就職と昇進の要件とすることは、一人ひとりの人間だけでなく社会そのものを制約し、抑圧し、害をもたらすだけのことである。

間もなくいくつかの州で学歴を聞くことを禁止するようになる。住民投票があれば私も賛成票を投ずる。卒業証書は学問的な能力についてさえ多くを教えてはくれない。

われわれは、学歴はないが有能で意欲ある者が通れるだけの風穴をあけておく必要がある。

雇用主たる者は、まずそのような者を自らの組織内で探すべきである。そのほうが新卒採用に無駄金を使うよりも実りは大きい。

今日のようにあらゆる雇用主が新卒者を採用しようとしている状況では、傑出した者どころか並みの者さえとれない。得られるものは初任給の上昇だけである。

大学へ行っていない者のいる池の中には、大魚はあまりいないかもしれない。しかし個々の雇用主にとっては、大勢が魚を奪い合っている池よりは大魚を得る確率はあるかに高い。

学歴はないが実力と意欲のある者を見つけさえすれば、彼・彼女らに知識を与えることは容易である。今日アメリカには、あらゆる都市にほとんどあらゆる分野について継続教育の機会がある。

学校のほうとしては、取得単位が不足していても能力のあることが明らかな者に対しては認定証書を出すべきである。そして単位は不足していても自らの手で道を切り拓いた者こそ、正規の教科内容という地図に頼ってきた者と同等、あるいはそれ以上の道を通ってきた者として評価する必要がある。

学歴の壁をなくさなければ、せっかくの知識社会もその未来は悪夢となる。学歴を差別の理由とさせてはならない。スラムの黒人がすでにそのような目にあわされている。

学歴の壁はわれわれの社会と経済を堕落させエネルギーを枯渇させる。理想をむしばみ仕事を侮らせる。知識社会のエトスを何事かを成し遂げることではなく、称号をもつこととする。

(※翻訳原文の「彼ら」を「 彼・彼女ら」に変更)