今回は、ハイエクの議論に見られる「社会をゼロサムゲームに変えてしまう要因」と「それを乗り超えるための基礎となるもの」について書きたいと思います。

 

以前、「人の働き方は、いまの子供たちが大人になるときまでに変わっていく」というリンダ・グラットンの議論に簡単にふれましたが、これに関連してハイエクは、人びとが一定の利益やポジションを奪い合うゼロサムゲームとは異なる社会が実現可能であると考えていたように思えます。


その社会を言い表すために彼が提案した「カタラクシー(catallaxy)」という言葉は、「交換すること」と「コミュニティに入るのを許すこと」と「敵から友人へと変えること」を意味したギリシャ語のkatallatteinに由来していました。


カタラクシーは、「それを実施することで他者の必要をうまく満たせるのが誰なのかが見えてくる」という点では厳しい競争の側面をもちますが、「ルールに従ってプレーが行われることで共同プールが拡大していき、能力や技能や運に委ねられてその分配が決まる」という点ではゼロサムゲームと異なっています。それは、人びとが先ず社会の共同プールへの貢献に努め、その分配が運にも依存して増減することを承認し、多様な活動に関わるより多くの人の機会が改善されるような社会になるのかもしれません。


では、社会をゼロサムゲームに変えてしまうものとは何でしょうか。ハイエクがそう明言していたわけではないですが、彼の議論のなかにはその主な原因として、「集団的利己主義(group selfishness)」と「集団的利益を保護する政策」が指摘されていたと考えます。またゼロサムゲームからの脱却の基礎となるものとして、「法の前の平等」や「開かれた社会のルール」の概念を普及・徹底させることが主張されていたと思います。


以下ではそれらを順に見ていきます。また次回の「敵から友人へと変える社会に(仮題)」のなかで、ハイエクが目指したカタラクシーという社会についてもっと詳しく書きたいと考えています。


集団的利己主義、部族社会の感情の復活


ハイエクは、経済を働かなくさせる最大の脅威は「集団的利己主義」だと述べていました。明確な定義は与えられていませんが、自分の立場や集団の利益に奉仕するのであればよそ者には危害を加えたり排除したりしてもいいという組織的な思考のことであるといえます。


例えば、同種の仕事で社会に貢献したいと望む人びとを締め出すことで自分たちの地位や所得を守ろうとする労働組合や同業者の団体・組合による排他的慣行が挙げられます。ハイエクはそれらの顕著な特徴を以下のように示していました。

  • 組合員以外の部外者による分野への参入を妨害する
  • 不要不急の仕事を増やす
  • 供給される財やサービスを統制しようと努める
  • 組合・団体への加入に高いプレミアムを課す
  • 仲間に心理的・道徳的な圧力をかけ、不本意な支持を強要する


集団的利己主義によって犠牲にされるのは、明らかに直接締め出される生産者に限らず、多くの場合は本人たちもそのことに気付いてないような組織されない(できない)人びとであると考えられます。「消費者一般、納税者、女性、老人」などをハイエクは挙げていましたが、最近の日本に関していえば「若者」も含められるかもしれません。


ハイエクは、集団的利己主義は人間に深く根ざしている部族社会の感情であると考え、それを「私たちの中にいる飼いならされていない野蛮人」と呼びました。また、最近になって部族の組織的な思考の強力な復活が見られている一つの理由として、社会の成員に占める大規模組織で働く人の割合がますます増加していることを挙げました。


集団的利益を保護する政策


ハイエクはまた、経済の働きを妨げる別の要因として、政策が組織された集団の利益を保護する傾向をもつことを指摘していました。つまり、「無数の小さなそれゆえに無視されがちな効果よりも、少数の強力なそれゆえに目立ちやすい効果のほうに優先的な考慮を与えがちである」というのです。とくに、自分たちの現在のポジションや一度到達した所得水準が脅かされていると感じている人びとの集団にたいして特権が与えられやすいと指摘しています。


会社法、税制、金融政策などに関しても、集団的利益を優先する傾向をもつことが主張されています。筆者自身は法律や政策をよく知らないのですが、ハイエクの議論の一部は以下のように要約できます。


a) 会社法

  • 会社を擬人または法人として認めることは自然人のもつ多くの権利が会社にも拡張される効果をもったが、技術的な理由によって正当化される範囲を超えて大規模化を有利にしている
  • 個人の権利を組織されたグループにまで拡張する必要はなく、時には組織されたグループから個人を守ることが政府の義務でさえありうる


b) 税制

  • 被雇用者の自由の拡大、芸術・文化・スポーツの発展、自然の美しさや歴史的財宝の保存などのためには、少数のイニシアティブをもった個人やそれらを後援する独立の資力をもつ個人をもっと存在させることが重要であるが、累進課税は成功している人が財産を蓄積するのを難しくすることで、社会を固定化している
  • 累進課税が資本形成の局面に与える影響を考えると、既存法人企業の地位を強化して、新規参入者の立場を不利にする傾向がある


c) 金融政策

  • 貨幣価値の低下による実質賃金の引き下げの後には、組合による貨幣賃金の引き上げの要求が続き、その反復は累積的なインフレーションを生むかもしれないが、いつかやめなければならないと人びとは気づくことになる
  • 一時的な雇用の増加や政府の介入による賃金引き上げは、組合が政府の機構のなかに編入されるような側面をもち、既存の経済構造の歪みを硬直化させ、より大きな不平等と全体としての労働者の実質所得の切り下げという犠牲を払ってはじめて実現する(集団的利益からなる擬似政府の肥大化)
  • 政策の刺激的な効果が作用するのは、それが予想されなかったあいだだけである

(一方で、輸出や外国人観光客の増加による効果などの論点は、ハイエクの議論ではあまり明示的に扱われていないかもしれません)


法の前の平等、開かれた社会のルール


組織的利益を優先する政策が問題となる一つの理由は、それらが社会の成員全員には適用されないこと、特権や差別的な扱いにつながることにあると思われます。ハイエクは、ルールはすべての人に等しく適用されるべきであるという「法の前の平等」の考え方を繰り返し強調し、法の前の不平等は相対的に貧しい人たちの犠牲において裕福な人びとを利すると主張しました。


法の前の平等は「法の支配」と同義で使われる言葉であり、17世紀まではギリシャ語のisonomia(イソノミア)やそれを英語の形にしたisonomy(イソノミー)という言葉が使われていたようです。これらは、法を施行する人びとが先ず自らとその子孫を縛りつける用意のあるルールの施行のみに限定されなければならないという概念でもあると考えられます。


現代のような拡張された交換に基づく社会を可能にしてきたのは、法の前の平等と「いまを生きている人びとが気づいている以上に多くの経験が蓄積されてくるなかでの試行錯誤の過程の産物としてのルール」の規律である。これがハイエクの重要なメッセージの一つであったと考えます。ここでは後者を「開かれた社会のルール」(または「大きな社会のルール」)と呼びたいと思います。


ハイエクの議論の中から、筆者が「開かれた社会のルール」と考えるもののごく一部を以下に示します。

  • 社会の成員の誰かが価値のあると思われることを行う付加的能力を獲得した場合には特定の人びとにとっての競争者となることを認め、社会にとっての利益と捉える
  • 誰も統制できない事情によってやむをえない立場におかれているのが自分であると決定されたときには変化にしたがい、努力の方向を変える
  • 少数の既知の人びとの必要に応えるよりも何千人もの未知の人びとの必要に応えるほうがよい


このようなルールの発達は、一つの部族コミュニティの内部ではじまったのではなく、未開人がお返しを期待して自分の部族の境界線に贈物をおいていったときの最初の無言の物々交換にはじまったのだろうとハイエクは考えていました。


結論としては、集団的利己主義とそれを保護する政策の問題点は「人間の努力の方向を導く指針を機能不全に陥らせること」にあるのに対して、法の前の平等と開かれた社会のルールの目的は「恣意的な権力を防止し、すべての人に好ましい機会が訪れる可能性を増大させること」にあるといえます。また次回に見るように、後者は「各個人が日常生活で出会う具体的出来事を活用すること」に役立つと考えることができます。

(次回に続きます)